日本人の物語01265【室町/義満期】日本国王 建文帝からの国書
「祖阿(そあ)」と「肥富(こいつみ)」の名前を大学受験の際に覚えさせられたような微かな記憶があるのですが、今考えても「この名前、知っとく必要あるかなあ」と甚だ疑問です。
かつて「日本国王」を九州の懐良親王が名乗っていましたが、義満はこの黒歴史を塗り替えなければなりません。応永9(1402)年9月5日に義満はようやく念願の「日本国王」に号されるのですが、それまでの経緯を見ていきましょう。
応永8(1401)年5月13日。義満が祖阿(そあ)と肥富(こいつみ)という商人を明に派遣しました。なぜ正式な使節なのに、身分の高い公家や武家でなく一介の商人を送り込んだのかは謎です。国書を受け取ってもらえなかったときに、「あれは正式な使節ではなかった」と誤魔化すためかもしれません。
明に到着した祖阿と肥富は
「日本准三后・道義、書を大明皇帝陛下に上す」
で始まる国書を明の2代皇帝・建文帝(けんぶんてい:1377~1402)に上程しました。
かつて義満は明の初代皇帝・洪武帝に使者を送るも、「日本国王ではなく臣下の一将軍に過ぎない者」とみなされ、国書を受け取ってもらえなかったことがありました。そこで今回は「日本准三后・道義」という名で国書を送っています。
准三后(准后ともいう)は「皇后」「皇太后」「太皇太后」の三后と同等とみなされる格で、「道義」とは義満の出家名です。征夷大将軍であった過去を隠し、出家名で上手くごまかしているようですが、果たして通じるのでしょうか。
実権という点では、この時点での義満は天皇や上皇を超えていました。崇光上皇が義満の注いだ盃を受けた話は以前書きましたが(01250回参照)、応永9(1402)年3月には後亀山上皇もまた、大覚寺で義満の盃を飲まされ、義満から見返りに金千貫をもらったという一幕がありました。しかし当然ながら正規の身分としては天皇よりも下であり、「国王」と呼べる立場ではありません。
しかし准三后名義での国書は功を奏し、上手く受け取ってもらうことができました。明からの返使は、応永9(1402)年8月5日に兵庫港へとやって来ました。待ちきれない義満は自ら兵庫港でこれを出迎えています。
ちなみに同じ8月5日には、嫡男義持の笙始の儀がありました。義持はこの日のために笙を一生懸命練習したでしょうが、父に聴いてもらうことができなかったのです。
明からの使節は北山第に招かれ、たっぷりと接待を受け、9月5日にようやく接見式が行われました。義満が建文帝からの国書を開くと、そこには
「なんじ日本国王・源道義。以後も朝貢を欠かさず、天下をして日本をもって忠義の邦たらしめよ」
との文字が書かれ、遂に義満は念願の日本国王の称号を得たのでした。
