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日本人の物語01686【戦国/東国/長享の乱】道灌殺害

関東戦国史を書いていると、割と家から近い地名が次々と出てくるので「あー、見に行ってみようかなあ」と思いつつ、結局面倒でなかなか出かけられません。

 都鄙和睦が成った後も、相変わらず下総千葉氏は上杉氏への反乱を継続しています。
 文明15(1483)年10月5日に道灌は敵に奪われた長南城(千葉県長南町)を奪回し、文明16(1484)年5月15日には馬橋城(千葉県松戸市)を築城し、千葉からの侵攻に備えました。さらに前ヶ崎城(千葉県流山市)を改築して弟の太田資常(おおたすけつね:?~1486)を置きました。敵方の千葉孝胤は、道灌に対抗すべく6月3日に本佐倉城(千葉県酒々井町)へと移りました。
 このように八面六臂の活躍を見せていた道灌を、悲劇が襲います。
 7月26日。道灌は主君の扇谷上杉定正に招かれ、定正の居城の一つである糟屋館(神奈川県伊勢原市)へ向かいました。そこに滞在中、風呂から出たところを定正の命を受けた曽我兵庫助(そがひょうごのすけ)に斬りつけられ、殺害されてしまったのです。
 このときの道灌の言葉は2通り伝えられています。
 1つは「当方滅亡」という言葉で、「私を殺すようでは扇谷家は滅亡するぞ」という警句です。道灌の子孫・太田資武(おおたすけたけ:1570~1643)が17世紀に書いた書状が初出なので史実かどうか怪しいものではありますが、太田家に伝わっていたとのことです。
 もう1つは、曽我兵庫助が
「かかる時 さこそ命の 惜しからめ」
(いざ死ぬとなると、いくら武勇で知られたお前でも、命は惜しいだろう)
と述べると、道灌は息も絶え絶えに
「かねて亡き身と 思い知らずば」
(常に死を覚悟していない者ならばそうだろうが、私は違う)
と下の句を付けたというものです。これも、斬り付けられた後で歌のやり取りをする余裕などあるはずもなく、怪しいものです。
 動機について定正は、3年後に江戸城代・曽我豊後守(そがぶんごのかみ)に宛てた書状の中でこう述べています。
「道灌は城塁を堅固にして、(山内上杉)顕定殿に対して不義を企てていたので、私はたびたび使者を派遣して道灌に厳しく意見を伝えた。道灌の江戸城・河越城の修築は緊急事態に備えたものだとしても、山内家への不義が重なったこの時期に周囲の懸念を煽るような挙動であり、私は避けた方が良いと述べたが、道灌は聞く耳を持たなかった。そして遂に謀反を思い立ったので捨て置けず、誅罰した」
 実際には道灌が山内への謀反を企てた証拠はなく、「道灌の勢いに警戒心を持った定正が謀反を恐れて先制的に殺害した」とみる識者が多いようです。

道灌殺害の場面は漫画「新九郎、奔る」第14巻で詳しく描かれております。是非ご覧ください。

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