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日本人の物語01268【室町/義満期】准母問題 義満の謎かけ

 いよいよ「准母問題」について語らなければなりません。中世史学者・今谷明氏の「王権(皇位)簒奪計画説」によると、義満が実子を天皇に据えるための作戦第一弾として、自らの妻を後小松天皇の准母に据えたという事件です。賛否両論ありますが、まずは今谷説に沿ってこの事件を見ていきましょう。
 きっかけは、応永13(1406)年12月26日に後小松天皇の母・三条厳子が危篤に陥ったことでした。厳子とは、義満との不倫を疑われて後円融上皇に剣の峰で殴打されたあの可哀想な人物です(01215回参照)。
 厳子危篤を知った義満は、
「在位中に父母両方の諒闇(りょうあん)を迎えるのは不吉である」
と発言し、過去の例を調べさせました。
 天皇の実父・実母が死去することは「諒闇」と呼ばれ、天皇は喪に服するなど所定の手続を経ねばなりません。天皇が即位期間中に父母双方を失うことは確かに珍しく、命を受けた裏松重光(うらまつしげみつ:1370~1413)が調べたところ、一条、四条、後醍醐の三例が見つかりました。
 重光の報告を聞いた義満は、なぜか一条天皇の例を完全に無視して他の二例について
「不吉である」
とコメントし、何らかの形で不吉を避けるよう命じました。四条天皇は板敷で自ら転んで頭を打って死去しましたし(00654回参照)、後醍醐天皇の時代には戦乱が起こったので確かに不吉なのですが、一条天皇の時代は平和だったはずです。義満は結論ありきで論理を捻じ曲げてしまう人間のようです。
 不吉を避けると言っても、天皇の親に擬した何かを立てるくらいしか方法がありません。そこで公卿たちから、天皇の母親代わりを意味する「准母」を立てるという提案が出てきました。准母に立てられればそれなりの格式をもって遇することとなります。
 洞院公賢らはこの提案について
「実の両親への不孝となる」
と述べて反対しましたが、義満は強硬に「何らかの措置をせよ」と繰り返すばかりでした。
 権力者によくあるパターンですが、義満は自分がやりたくてやりたくて仕方のないことを、自分から言わずあえて謎かけのような形で周囲に考えさせます。そして周囲から提案させて、自分の本意ではないかのように装って許可するのです。極めて悪辣と言わざるを得ません。

いつも「まえがき」を書いているのですが、たまには「あとがき」にしてみます。
最後の段落に書いた「自分がやりたくて仕方のないことを、自分からあえて言わず謎かけのような形で周囲に考えさせる幹部」は私の職場にもいました。こういう奴、心底から嫌いです。

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