見出し画像

日本人の物語01590【室町/西国/応仁の乱】日野富子の存在感

日野勝光が長生きしていれば、公家と武家の境界が徐々に曖昧になっていた可能性がありますね。他にも幕政に口を出す公家が生まれていたかもしれません。

 文明7(1475)年。この時点で既に応仁の乱勃発から8年が経ち、後土御門天皇が内裏を離れて室町御所に居住する異常な状態が8年間も継続しています。
 将軍御所に仕える武士たちもこの状況に慣れっこになり、もはや天皇への畏敬の念は消えてしまったのかもしれません。例えばこの年、義尚が伊勢貞宗邸で犬追物を催すこととなり、義政御供衆の伊川(いかわ)一門が室町御所で犬追物の予行演習を行いました。天皇の住む御所の敷地内で犬追物とは不敬とされ問題視されるはずですが、さほど問題にされませんでした。公家たちがもっと大騒ぎしても良いはずですが、公家界の大物・日野勝光内大臣はほとんど幕府高官として活動しており、こうした問題に寛容だったようです。
 この頃は日野勝光・富子兄妹に権力が集中していたらしく、文明8(1476)年3月8日には、富子が戦災で困窮していた禁裏番衆に対して1万疋という大金を寄付した記録があります。尋尊の日記によると、富子は官位や所領安堵の口利きで得た金銭を溜め込んでいたといい、尋尊がひどく富子を嫌っていることが分かります。
 さらに尋尊は
「御台所(富子)が米倉を立てており、米屋を始めようとしている」
との噂を記しています。商売として始めるのか、はたまた行政機関として食糧を備蓄しようとしているのか不明なので何とも評価できませんが、富子が権力を保持していることに尋尊はひどく立腹しているようです。
 口利きの際に金銭をもらったり、食糧を備蓄したりすることは、将軍なら誰でもやっていることなのですが、御台所が行うと非難されるようです。御台所という立場でありながら将軍のように振る舞う富子に、世間は眉をひそめていたのでしょう。
 5月16日。日野勝光は左大臣に昇進しました。摂関家でも清華家でもない者が左大臣になるとは異例中の異例です。
 しかし勝光の栄華は一瞬のことでした。6月15日に47歳で急死したのです。勝光を「新将軍代」と呼んで揶揄していた尋尊は、勝光の死を「希有の神罰なり」と記して喜びました。西軍びいきの尋尊にとって、幕政を主導した勝光は怨嗟の対象だったのでしょう。
 勝光は幕臣ではなかったにもかかわらず、義政の意を受けて大内政弘との和睦交渉を斡旋しており、その勝光が死去したことで一見和睦は遠ざかったように見えました。
 しかし、勝光死去は逆の影響をもたらしました。そもそも義視が義政と袂を分かった原因は、義政が気に入っていた側近の伊勢貞親・日野勝光が、義視と険悪だったことにありました。この2人がともに死去したことで、義視と義政のわだかまりが消えたのです。義視は義政に恭順の意を示し、9月には詫び状を提出するに至り、和解ムードが広がりました。
 11月には将軍御所に放火があり、富子・義尚・後土御門天皇が義政のいる小川御所への避難を余儀なくされましたが、早く戦乱を終結させろという庶民の不満の表れかもしれません。

日野勝光の死因は病死ですが、大河ドラマ「花の乱」では富子による毒殺となっていました。かなり史実と差異があるドラマでしたが、深みのある脚本でしたね。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集