日本人の物語00598【鎌倉前期】畠山重忠の乱 牧の方の暗躍*
畠山重忠の子である重保(しげやす:?~1205)もまた、平賀朝雅の突然の昇進に苛立っている御家人の一人でした。
元久元(1204)年11月4日。畠山重保と平賀朝雅は激しい口論を起こしました。具体的にどのような口論だったかは伝わっていませんが、おそらく重保が朝雅を侮辱したのでしょう。
時折りしも、翌11月5日に時政と牧の方の間に産まれた唯一の男子である北条政範(ほうじょうまさのり)が急死しました。政範に北条家の家督を継がせようと思っていた牧の方が悲しみに暮れたであろうこと、そして娘婿である平賀朝雅に全ての望みを託そうと考えたことは想像に難くありません。
畠山重保と平賀朝雅の口論。そして牧の方の最愛の息子の死。この2つの出来事が同時に起こったことが、思わぬ戦乱の呼び水となります。
平賀朝雅がこの口論を義母の牧の方に言いつけたところ、息子の死で冷静を失っていた牧の方はこれに過剰に反応してしまいます。
元久2(1205)年6月21日、牧の方は夫・時政に
「畠山重忠・重保父子は朝雅を讒言しました。謀反を企てているものと考えられます」
と吹き込みました。これまた過剰反応した時政は、すぐさま次男の義時と三男・時房(ときふさ:1175~1240)を呼び出し、
「畠山重忠・重保を誅殺せよ」
と命令しました。ちょっとした口論程度で誅殺とは、時政もまた後妻可愛さのあまり冷静を失っているとしか思えませんね。
さて、義時の弟である北条時房が初登場しました。これまで存在感を発揮していませんでしたが、今後めきめき実力を上げ活躍していく人物です。初代連署として鎌倉幕府を支えた人物であり、教科書にも載っています。
義時・時房は長年、畠山重忠と懇意にしてきたわけですから、
「畠山は幕府に忠義を尽くしてきたではありませんか。真偽を正してからにすべきでしょう」
と言ってこれを拒絶しました。当然の反応だと思います。これを聞いた時政は不満げに無言で退出していきました。
時政は諦めましたが、牧の方はなおも諦めようとしません。

