日本人の物語01497【室町/西国/大乱前夜】義政の決断力
昨日誤ってアップしたものを、今度は正しい順序でアップし直します。
応仁の乱の原因とされる事項が一通り揃いました。ここらで復習しておきましょう。
【畠山家の家督問題】
①畠山持国は当初、甥の弥三郎を後継者としていた。
②文安5(1448)年11月に持国は突然、弥三郎を廃して義就を後継に指名。享徳3(1454)年4月には持国は義政に働きかけ、弥三郎追討令を出させる。
③享徳3(1454)年8月。弥三郎がクーデターを起こし追討令を撤回させ、家督継承を宣言。義政・細川勝元・山名宗全はともに弥三郎を支持。
④享徳3(1454)年11月。赤松再興問題で宗全は失脚し、弥三郎も同時に失脚。12月に義就が上洛し家督継承。
※長禄3(1459)年6月に弥三郎は病死し、弟の政長が登場。
⑤長禄4(1460)年9月。義就、将軍の権威を傘に着た振舞いで義政の怒りを買い、隠居在国を命じられる。義就が激怒して屋敷に放火したため翌月には義就追討令。家督は政長に。
いやはや、家督が4回も入れ替わっています。この後寛正4(1463)年11月には義就が赦免され、よもや5回目の家督交代が起こるかどうかといったところです。(起こります)
【斯波家の家督問題】
①義敏が家督相続するも、家臣の甲斐・朝倉が反対。
②長禄3(1459)年5月。義敏は勝手に越前に出陣したため義政を激怒させ失脚。家督は一旦は子の義寛が継ぐが、やがて廃嫡され義廉に家督が移る。義敏支持の勝元は激怒するが、義廉の母が山名家出身のため宗全はこれを歓迎。
③文正元(1466)年7月。山名宗全の娘と婚約した義廉は、家臣が起こした殺人事件が原因で追放される。一方、伊勢貞親に妾を差し出した義敏は家督に復帰。
こちらは家督が2回入れ替わっています。そして義廉追放はあからさまに伊勢貞親の意向によるものであり、その貞親への反発が強まっているので、貞親の去就次第では3回目の家督交代が起こりそうです。(起こります)
いずれについても、将軍義政は次々と判断を翻しており、かなりの気まぐれ主君といえそうです。しかし細かくみていくと、義政が周囲の反対を押し切って一人で決断したといえるものはなく、いずれも二派に分裂した側近グループのどちらかの進言に従って判断しているようなのです。
義政は気まぐれ的な独裁者というより、目の前にいる人の言う通りに動いてしまう流されやすい性格なのではないでしょうか。いずれにせよ、決断力に乏しい将軍だったことは間違いないでしょう。
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