日本人の物語00372【平安後期】藤原師実、関白となる
後三条が崩御し、次に政治の表舞台に立ったのは、頼通の六男・藤原師実(ふじわらのもろざね:1042~1101)です。この師実が政権を担ったのは、多くの偶然に助けられてのことでした。
藤原頼通は、具平親王(ともひらしんのう:村上天皇の第7皇子:964~1009)の娘・隆姫(たかひめ:995~1087)と結婚していました。臣下である藤原氏が、皇族の女性を娶ったわけです。
ところが頼通と隆姫との間には子が産まれませんでした。その一方で、頼通と側室の藤原祇子(ふじわらのまさこ:?~1053)との間に6男1女が産まれます。
頼通は長男・通房(みちふさ:1025~1044)以外の男子4人を他家に養子に出すこととしました。隆姫が側室に嫉妬したためといわれていますが、事実かどうかは分かりません。いずれにせよ、頼通が皇室から嫁いできた正室に相当に気を遣っていたことは事実でしょう。
ところが、肝心の通房が長久5(1044)年4月24日に19歳の若さで死去してしまい、頼通は嫡子を失ってしまいます。
まだ養子に出していなかったのは、末っ子の師実だけでした。こうして、師実が頼通家の嫡子に立てられました。
延久6(1074)年初頭。病の床についていた藤原頼通は、当時関白を務めていた弟の教通を呼び、
「関白職を我が息子の師実に譲ってほしい」
と述べました。しかし教通はこれを拒否します。このとき教通は、息子の藤原信長(ふじわらののぶなが:1022~1094)に関白職を継がせたがっていたのです。
頼通は子の将来を案じつつ、2月2日に死去しました。このままでは、師実のところに関白職が回ってくることはないはずでした。
しかし、その翌年、承保2(1075)年9月25日に教通もまた死去してしまいます。教通が、後継指名できるほどの実力を未だ持たないままに死去したため、関白の職を信長に上手く継がせることができませんでした。
こうした偶然が重なり、師実が関白に就任することとなったのです。
さて、師実は関白としてはさほど重要な事績を残していないのですが、1点だけ特筆すべき事件があります。師実が着任早々対応しなければならなかった「後三年の役」と呼ばれる大事件です。
