日本人の物語01670【室町/西国/六角征伐】10代将軍義材
やっと15代のうち10代目に入りました。しかし解説の分量のしてはこの後の方が長くなりそうですね。
小川御所は長享3(1489)年4月には義視・義材父子の住処となりましたが、父子はすぐに別の館に移り、翌延徳2(1490)年4月に清晃に与えられました。富子が小川御所を清晃に与えたのは、どういう事情からでしょうか。
もし小川御所を引き続き御所として使う意図があるのなら、清晃を次期将軍に推すとの宣言にほかなりません。しかし富子はあくまで義材を推しており、義視・義材父子をわざわざ美濃から呼び戻して将軍となる準備をさせていたはずです。となると、富子は小川御所をもはや御所として使うつもりはなく、単に政元が推している清晃に一定の配慮を示し、ふさわしい屋敷を与えただけということになります。
その証拠に、延徳2(1490)年4月28日に富子は「小袖」と呼ばれる将軍家伝来の鎧を義材に与えました。これは紛れもなく、次期将軍候補として義材を推すという意志表示です。
ところが、富子が小川御所を清晃に与えた趣旨を、義視は誤解してしまいます。
「富子は政元と相談し、やはり清晃を将軍にしようとしているのだな」
と邪推した義視は激怒し、清晃が入居するより早く、5月18日に小川御所を破却してしまいました。それだけではなく、富子が猿楽を催そうとしていることを知ると、義視は関係者に圧力をかけてそのイベントを中止に追い込みました。
富子は義視の横暴に怒りましたが、かといって義材を推すのをやめたわけではないようです。
いろいろ揉めはしたものの、7月5日、予定通り義材に対して将軍宣下がありました。「細川政元が清晃を支持している」との話は既に皆に知られていたため、義材はそれを打ち消すために将軍宣下の儀を政元邸で執り行い、「政元もちゃんと義材を推している」旨を天下に示しました。
また、判始・評定始・沙汰始の儀式を行うために政元が管領に就任しましたが、翌7月6日には辞職しているため、やはり政元は義材政権に協力するつもりはないようです。
息子が将軍となったことで、義視の権威はいやでも高まりました。延徳2(1490)年7月中には准后となり、「大御所」と呼ばれるようになりました。
義材は成人ではありましたが政治経験が皆無なので、当面は「大御所」たる義視が政務を代行することとなりました。兄の死を受けて、義視はようやく最高権力者の座を手にしたわけです。
しかしその義視に残された期間はあまりに短いものでした。大御所となって2ヶ月後の9月には、腫物により体調が悪化し、政務どころではなくなってしまったのです。義視は床に臥すようになりました。
この時代、身分ある武士でも立腹するとすぐに過激な行動に移してしまう人が多いですね。
