日本人の物語00193【飛鳥】壬申の乱 吉野脱出
日本書紀における壬申の乱の記述は、吉野山にいた大海人皇子の元に、配下の朴井雄君(えのいのおぎみ)という人物が帰って来たところから始まります。
朴井雄君は、
「先日美濃に行って来たのですが、近江の朝廷が美濃・尾張に対して、武器を持って大津に集合するよう指示を出しているようですよ」
というのです。
普通に考えれば、近江政府が大海人皇子を滅ぼそうとしているということになります。
これを聞いた大海人皇子は、
「あらぬ疑いをかけられ、おめおめと滅ぶわけにいかない」
と述べ、天智天皇11(672)年6月24日、妃の鵜野讃良皇女、子の草壁皇子とともに吉野を脱出しました。
この「あらぬ疑い」という言葉は本当でしょうか。実際には大海人皇子もまた、近江政府への反逆を企てていたのではないでしょうか。
さて、日本書紀では朴井雄君によって近江政府の動きが知らされたことになっていますが、『宇治拾遺物語』では違ったストーリーになっています。
大海人皇子には、十市皇女という娘がいました。額田王との間に産まれた女子です。この十市皇女は、大友皇子に嫁いでおり、近江にいました。父と夫が対決するという事態に至り、ひどく苦しんだことでしょう。
宇治拾遺物語によると、十市皇女は、父・大海人皇子に危難を知らせるため、包み焼きした鮒の腹に手紙を入れて送り届けたというのです。これは、戦国時代にお市が信長に小豆の入った袋を送り届けたという話と共通していますね。おそらく後世の創作でしょう。
吉野を脱出した大海人皇子は、子の高市皇子(たけちのみこ:654?~696)・大津皇子(おおつのみこ:663~686)と合流しました。といっても、高市皇子は一旦別行動で兵を集めることになります。
大海人皇子にとっては、正妻・鵜野讃良皇女との間に産まれた嫡子・草壁皇子はまだ幼く、側室の子である高市皇子・大津皇子の方が頼りになる存在だったでしょう。
さて、6月26日、大海人皇子が吉野を脱出し東国へ向かったとの情報が入り、近江政府は大混乱に陥ります。大海人皇子側につこうという者が次々と大津宮を脱出し始めました。
やはり、天智天皇は敵を作りすぎたのですね。天皇に権限を集中させるために豪族の権力を削ぎ落とすような改革をやり過ぎました。そのときに発生した不満分子たちが、いまや大海人皇子方について近江政府を滅ぼそうとしているのです。
急激な改革が反乱を生む、ということは万国の歴史に共通する法則なのかもしれません。
