日本人の物語00554【鎌倉初期】初代将軍・源頼朝
建久3(1192)年1月21日。鎌倉で時ならぬ謀略事件が発覚します。
この日、頼朝は新たに建立中の永福寺(ようふくじ)の工事を視察していました。
奥州合戦において、頼朝は平泉の中尊寺をはじめとする絢爛豪華な建築群を目のあたりにし、圧倒されました。「そのような規模の建築を鎌倉にも是非造営したい」との思いから、中尊寺を模して永福寺という寺院を新たに建立するよう指示したわけです。
この永福寺の建設を任されたのが、工藤行政(くどうゆきまさ)という御家人でした。工藤は頼朝が京から引き抜いた文官であり、武士ではありません。後に永福寺が完成すると、その二階建ての本堂は話題となり「二階堂」と呼ばれるようになったため、これを光栄に感じた工藤行政は「二階堂」と改姓し、二階堂行政と名乗るようになります。
さて、その永福寺の建設現場を視察した頼朝は、石を運ぶ作業員の中に片眼のない男を見つけます。頼朝が
「あの男はどこから来た者か」
と尋ねたため、梶原景時が尋問しますが、男は答えようとしません。
男を拘留して取り調べたところ、男は伊藤忠光(いとうただみつ)といって、平家の侍大将として有名な伊藤忠清の子に当たる人物でした。忠光は頼朝暗殺の機会を窺って作業員に交じって働いていたというわけです。忠光は2月24日に処刑されました。
さて、3月13日に後白河法皇は64歳で崩御し、7月12日に頼朝は征夷大将軍に就任しました。頼朝が「大将軍」という官職を望んだことから、朝廷で「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の4候補を検討し、結局「征夷大将軍」に落ち着いたのでした。
この後、天皇をも凌ぐ権力を持つ幕府のトップを意味する「征夷大将軍」は、4つの候補の中からたまたま選ばれたに過ぎなかったのです。
一説によると、
「頼朝は征夷大将軍就任を求めたが法皇がこれを拒否し、法皇がいなくなることでようやく念願の職名を得た」
といわれていますが、
「征夷大将軍=幕府を開設できる」
という観念はまだ確立していなかったので、頼朝が本当に征夷大将軍を欲しがっていたかは疑問の残るところです。
さて、ようやく頼朝が征夷大将軍に就任しました。かつてはこれをもって鎌倉幕府成立とみなされていたわけですが、既に鎌倉を中心とする武家政権は全国に守護・地頭を設置し、その支配機構を張り巡らせているわけで、征夷大将軍就任は象徴的な意味合いしかありません。とはいえ、幕府の長たる「将軍」という職がここに始まったことは画期的なことといえます。
