日本人の物語00652【鎌倉中期】小倉百人一首編纂
この頃、藤原定家による『小倉百人一首』が編纂されたと推定されています。というのも、定家の日記『明月記』の文暦2(1235)年5月27日の条に、「古来の人の歌各一首を書き送った」との記述があり、これこそ小倉百人一首ではないかと考えられているのです。
小倉百人一首は、藤原定家が宇都宮頼綱の依頼を受けて作成したもので、100人の歌人から1首ずつ優れた歌を選び、年代順に色紙にしたものです。定家が小倉山(京都市右京区)で編纂したことから後世に『小倉百人一首』という名でよく知られるようになりました。
百人一首の特徴は、定家が何らの制約も受けることなく歌人を選定しているため、政治的敗者の歌が比較的多いことです。かつて定家の父・俊成が千載和歌集を編纂したとき、朝敵である平忠度の歌を大っぴらに選定することができず、やむなく「詠み人しらず」としての掲載にとどめることとなりましたが、百人一首は公式に朝廷が発表する歌集ではないため、自由な選定が許されたわけです。
また、飛鳥時代から鎌倉時代まで500年を超える時代から広く選定していることも大きな特徴です。万葉集の編纂者・大伴家持、古今和歌集の編纂者・紀貫之、新古今和歌集の編纂者・藤原定家が言わば同じ舞台上で競演しているわけで、定家は先人たちと競うつもりで自らの歌を自選したのではないでしょうか。
そして最も注目すべきは、定家自身の生涯に大きく暗い影を落とした後鳥羽上皇と源実朝の歌が選定されていることです。
第93首には実朝の武人らしからぬ優しい気遣いが最も表れた歌を選んでいます。定家にとって一度も対面することのなかった弟子・実朝への思いが垣間見えるようです。
「世の中は 常にもがもな 渚こぐ 海人の小舟の 綱手かなしも」
(世の中は常にこのままであってほしいものだ。渚に漕ぎ出していく漁師たちの舟の綱手を見ていると、そのような思いに駆られてしまう)
一方第99首には、定家にとって長年の和歌仲間でありながら、不興を買って対立し、喧嘩別れとなってしまった後鳥羽上皇の歌が選ばれています。
「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふ故に 物おもふ身は」
(人をいとおしいと思ったり恨めしいと思ったり、つまらない世の中を思って物思いにふけってしまう)
武芸にも和歌にも秀で、風流を愛する心と政治的権力欲とを矛盾なく持ち合わせていた後鳥羽上皇にふさわしい「人を愛する気持ち」と「人を恨む気持ち」を歌ったものです。後鳥羽上皇の数ある名歌の中からこれを選定したのには、定家の目から見て上皇の魅力が最も引き出されている歌だと考えたためではないでしょうか。
定家はその後仁治2(1241)年に亡くなりますが、小倉百人一首は後世の人々に愛唱され、人々に最も記憶される歌集として現代に引き継がれています。
