日本人の物語01391【室町/義教期】嘉吉の土一揆
高校日本史で「金融業者のことを土倉や酒屋と呼ぶ」と習うのですか、その理由が最近分かりました。彼らは、元々は倉庫保管業者や酒造業者で、片手間に始めた金融の仕事がいつの間にかメインになってしまったのだそうです。
義教が暗殺され、赤松討伐が進んでいた嘉吉元(1441)年8月、まさに嘉吉の乱と並行して近江で代替わり徳政を求める一揆が勃発しました。嘉吉の土一揆です。
この一揆も正長の土一揆と同様、近江の馬借が一斉に蜂起したところから始まりました。近江半国守護の六角満綱はたまらず徳政令を発布しましたが、この徳政令は近江国の農民・馬借らに限定して適用される徳政令だったため、民は納得せず洛中へとなだれ込み、清水寺を占拠してそこを拠点としつつ、借金帳消しを訴えて土倉・酒屋・寺院を襲撃しました。当時は倉庫保管業者である土倉、酒造業者である酒屋、そして寺院までもが消費者金融のような役割を担っており、借金に苦しむ民の怨嗟の的となっていたのです。
管領・細川持之は赤松満祐討伐のかたわら、この土一揆にも対応しなければならず、大いに苦しみました。土一揆鎮圧を目的に諸大名に出兵を命じたものの、
「持之は土倉から賄賂一千貫をもらって、彼らを保護するために出兵命令を出した」
との噂が出回り(これは真実の可能性が高いようです)、守護たちは出兵を拒否してきました。そうこうするうちに9月になり、一揆勢は東寺、北野社、天龍寺までも占拠し、京の出入口である丹波口・西八条口を封鎖してきました。これでは物流が途絶えてしまいます。
結局、守護たちに見放された幕府方は一揆勢と一戦も交えられないまま、物流を人質に取られて身動きできず、遂に徳政令を発布することに決めました。これは一揆勢の主張をまるまる認めた初の事例となります。幕府の権威は大きく傷つきました。
しかし一揆勢はまだまだ納得しませんでした。閏9月になって、一揆勢は徳政令を質物・質地だけでなく永代売買地にも適用するよう求めてきました。この意味を理解するには、中世における「売買」が現代人の考える売買とは大きく異なる概念であることを知らねばなりません。
つまり中世人は、「全ての土地は特定の家に帰属しており、売買すれば所有者は一時的に変更されるが、本来の帰属先は変更されない」との認識を持っているのです。これは現代でいうところの質入れに似ています。徳政令とは、売買した物・土地を現在の所有者から元の帰属先に無償で返すことを認める法令なのです。
一方、帰属先そのものを変更する契約が「永代売買」です。永代売買に当たっては契約書に「仮に徳政令が発布されても売主は取り返せない」という注意書き(徳政文言といいます)が記され、徳政令の対象外とされていました。今回、一揆勢は本来なら徳政令の対象外となるはずの永代売買についても対象とするよう求めたというわけです。
幕府は閏9月10日付けで徳政令の施行細則を定め、「過去20年以内に売却した永代売却地についても対象とする」旨の条文を盛り込みましたが、延暦寺の猛抗議を受けて8日後には撤回に追い込まれました。一揆勢と延暦寺の板挟みとなって迷走した幕府の権威は再び低下しました。
徳政令の観念。やはり現代人である我々にはピンと来ませんね。
