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日本人の物語01516【室町/東国/享徳の乱】二つの元号

元号を二つ併記しながら話を進めるのは南北朝時代以来ですね。

 足利成氏は長尾景仲を討つべく、享徳4(1455)年5月30日に祇園城(栃木県小山市)に入りました。6月11日には只木山も攻略され、敗れた景仲はさらに騎西城(埼玉県加須市)へと敗走します。
 常陸国・下野国で戦っていた成氏自身はこのとおり快調でしたが、上野国で戦う成氏の家臣たちは不調でした。6月5日には上野国の三宮原(群馬県吉岡町)で合戦があり、成氏方は越後上杉房定・山内上杉房顕連合軍に敗れました。成氏方は高井城(群馬県高崎市)に敗走したものの、そこも攻略されてしまいます。
 結局のところ、成氏方が勝利しているのは成氏自身が在陣している古河の周辺だけです。鎌倉でも上野国でも敗北を重ね、追い詰められた成氏は7月9日に祇園城まで撤退しました。その後も、一時的には上野国まで進軍して穂積原(群馬県伊勢崎市)で上杉一族と戦ったりもしましたが、やはり敗北しました。
 追い詰められているように見える成氏ですが、彼の粘り腰はここからです。
 7月25日に幕府は朝廷に改元を申請し、元号が「康正」に改まりました。しかし中央政権に反発する成氏はその改元を受け入れず、引き続き「享徳」を使い続けます。その後も幕府は長禄、寛正、文正、応仁、文明と次々と改元しましたが、成氏はそれも拒否し、享徳27(1478)年まで「享徳」を使い続けたのです。天皇が二人いるわけではありませんが、元号が二つあるとはまるで南北朝時代のようですね。
 ここからは(東国情勢については)幕府方の元号と成氏方の元号を併記しながら書き進めていきます。
 頼みにしていた宇都宮等綱が上杉方についたとの情報に接した成氏は、康正元/享徳4(1455)年7月29日、那須資持や小山持政に宇都宮討伐を命じました。
 このとき成氏は、宇都宮をどうしても自分で討ちたかったのか、はたまた士気高揚のため自ら出陣した方が良いと思ったのか、自ら古河を出て小野寺(栃木県佐野市)まで進出しました。結局成氏自身が戦うことはなく、10月15日には成氏配下の小山持政が宇都宮を破りました。
 成氏討伐が意外に苦戦していることを知った幕府は、康正元/享徳4(1455)年11月に後花園天皇から成氏追討の綸旨を賜りました。錦の御旗だけでなく、名指しでの追討令をもらってきたわけです。
 しかし、綸旨が出た旨の知らせが東国に届くには一定の時間がかかります。それまでの間に成氏は次々と勝利を積み重ねていきます。

そういえば南北朝時代の中でも元号を3つ併記していた時期もありましたね。自称天皇が3人いるという異常な時代でした。

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