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日本人の物語01267【室町/義満期】日本国王 義満の真意

今回書いた内容は、桃崎有一郎氏の『室町の覇者 足利義満』(ちくま新書)からの受け売りです。実に面白いので、義満の時代に興味があるなら一読をお薦めします。

 『宋朝僧捧返牒記』に書かれた応永9(1402)年9月5日の接見式の様子は、驚くべきものでした。
〇北山第で開かれた接見式の場には公卿・殿上人がおらず、義満の側近が数名いるだけだった。
〇義満はあらかじめ寄せられていた明側の希望を拒絶して、明の使者を下手に位置付け、自らは寝殿に昇って着座していた。
というのです。明の使者に対する義満の態度は、卑屈どころか尊大だったというわけです。しかも、その場に関白・二条満基はおらず、満基は後になって国書の文面を人づてに聞いて憤っていたのです。
 そういえば、義満は「日本国王」の称号を得ておきながら、その後この称号を国内向けの文書で一切用いていません。公卿らを同席させず、あくまで内密にクローズドな場を用意した上で、日本国王の座に就いたのです。
 以上のことから、義満は「日本国王」と号されたことについて明の建文帝に感謝もしておらず、他者に誇ってもいないことが分かります。何なら、あまり広めたくなかった、知られたくなかったとすら考えられます。
 ここから考えられる帰結は一つです。義満は、単純に明との貿易による実利を得たかったのではないでしょうか。
 貿易を成立させるには、明に対して下手に出て、朝貢者となるしかありません。しかし後小松天皇を日本国王に据えて朝貢するとなると、日本という国家の地位を低下させてしまいます。
 そこで義満は、自らを天皇とは無関係の「日本国王」と位置付ける演出を考えました。明からの使節をもてなす場所として北山第という場所を選び、公卿らに陪席させなかったのもそのためです。北山第(金閣寺)は現在でこそ京都市内にありますが、当時は「洛外」との位置付けです。明の使者たちは日本の首都を訪問して、その最高為政者の執務場所を訪問したつもりだったのでしょうが、実は首都にも入っておらず、天皇とは無関係の、征夷大将軍も太政大臣も引退済みの一人の僧侶でしかない人物に国書を渡してしまったのです。宛先が「日本国王・源道義」とあり、出家名しか書かれていないのもそのためです。このことは使者たちには知るよしもなかったでしょう。
 つまり義満が「日本国王」となったのは、貿易の実利を得ながらも「明への朝貢者は天皇とは無関係の一個人である」とする虚構の論理を構築することで、天皇の名誉を守るためだった、と評価することもできるのです。
 以上の話は一つの仮説ではありますが、なかなかに説得力があると思います。

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