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日本人の物語01095【南北朝中期】阿蘇家の内紛

「筑後川の戦い」が九州南北朝史の最大の盛り上がりポイントなんですが、戦前は有名だったこの戦い、今は全然知られていませんね。

 菊池武光が懐良親王を大将として、豊後の大友退治に向かったわけですが、途中で阿蘇大宮司が治める領地(熊本県阿蘇市)を通らなければなりません。
 阿蘇大宮司家は当主の惟時(これとき:?~1353)が正平8/文和2(1353)年に死去したばかりで、その家督をめぐる内紛が生じていました。
 惟時の実子は惟直といって、多々良浜の戦いで南朝方につき、自害に追い込まれてしまった人物です(00862回参照)。実子を亡くした惟時はその後、養子の惟澄が止めるのを聞かず、北朝方に寝返ってしまいます。
 養父・惟時は北朝。養子・惟澄は南朝。阿蘇大宮司家は、親子で南北朝に分断されてしまいました。
 さらに惟澄の息子たちも分断されます。長男・惟村(これむら:?~1406)は北朝方に、次男・惟武(これたけ:?~1377)は南朝方についてしまいました。そこで惟時は死に際して家督を養子の惟澄ではなく、養孫の惟村に相続させました。あくまで阿蘇一族として北朝に仕えたいと思ったのでしょう。
 こうした複雑な情勢の中、菊池武光は5千騎を率いて豊後に向かいます。
 密かに北朝方に通じていた阿蘇惟村は、領内9ヶ所の城に兵を置いて菊池勢を迎え討ちました。さすがの菊池も道を塞がれてどうしようもなく、肥後に引き返すしかありません。
 さて、九州で幕府方が菊池への反撃を始めたと知り、幕府は少弐・大友を強力にサポートするべく、故・細川顕氏の子である繁氏(しげうじ:?~1359)を伊予守に据え、九州の総大将として派遣しました。繁氏はまず讃岐国に赴いて軍勢を集めるのですが、正平14/延文4(1359)年6月2日、突然病に倒れてしまいます。
 熱病に冒された繁氏はひどく苦しみ、冷たい水を飲んでも沸騰した湯のようだと訴え、その体に近づくだけで猛火のように熱かったといいます。ここは平家物語における平清盛の臨終エピソードを丸写ししているようですね。ちなみに太平記は、熱病に冒された原因を
「崇徳院(00415回参照)の領地を侵略したため」
と説明しています。
 病に倒れて7日目の朝、千騎ほどの兵が伊予国府に押し寄せてきました。太平記によると、繁氏方の兵が必死に応戦したものの、敵兵は細川繁氏を討ち取ったかと思うと、そのまま宙に浮いて雲に乗り、飛び去っていったといいます。つまり繁氏は崇徳院の亡霊が率いる兵たちに殺害されたというのです。実際には病死でしょう。
 少弐と大友は、幕府のサポートが得られなくなって不安に思ったでしょうが、肥後国にいる菊池武光を討つべく準備に入ります。
 いよいよ南北朝時代最大の合戦、筑後川の戦いが始まります。

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