日本人の物語01423【三山】舜天王朝の誕生
ここで琉球の伝説と日本史がリンクするとは驚きです。
天孫王朝が倒され、逆臣・利勇が天下を取ったという混乱の時期に現れ、次の王朝を建てるのが舜天(しゅんてん:1166~1237)です。この舜天はなんと、源為朝の子だといわれています。
平安時代末期、保元の乱に敗れて伊豆大島に流罪となった為朝は、その後船で琉球に渡り、島添大里(しましーうふざと:沖縄県南城市)に住み始めました。為朝はそこを治めていた大里按司の妹を娶って、やがて舜天が産まれました。しかし為朝は故郷を思う気持ちが強く、やがて去ってしまいます。このとき、舜天とその母が父の帰りを待ちわびたという洞窟が沖縄県浦添市牧港に今も残っています。
舜天は成長するにつれ、抜きんでた器量を発揮して人々の尊敬を集め、15歳で浦添(沖縄県浦添市)の領地を治める浦添按司となりました。そんな中で、逆臣利勇が天孫王朝の25代国王を毒殺したことを知った舜天は、利勇を倒すために義勇軍を組織しました。
舜天は父の形見である鎧と兜を身に着け、弓と24本の矢、黄金作りの太刀を装備し、そして金覆輪の鞍を置いた鹿毛の馬に乗り、50余りの騎兵を連れて、首里城(実際はこの時代に首里城はないはずですが)へと出陣していきました。この描写はまさに平家物語に登場する平家の公達そのもので、この神話が様々な文献から影響を受けていることが見てとれます。
舜天軍の奇襲を受けた利勇は敗北を悟り、妻子を自ら刺殺した後、切腹して果てました。1187年、国民は舜天に王となるよう求め、舜天は三度に渡って断ったものの、遂に説得を受け入れて22歳で即位しました。舜天王朝の始まりです。
舜天は生まれつき頭の右側に角のような突起があり、それを隠すために髪を右側に結っていました。人々がそれを真似したことが、琉球王国の髪型「欹髻(カタカシラ)」の由来とされています。
舜天は22歳で即位し、71歳で崩御するまで国王の地位にありました。『中山世譜』は、
「人を罰しても妻子に及ぼすことはなかった。国は安定し、民は豊かで、世にも稀な名君であった」
と評価しています。ちなみに舜天には尊敦(そんとん)という別名もあり、これは死後に贈られた諡号なのか、生前に名乗っていた本名なのか定かではありません。
舜天は琉球の最初の王とみなされていますが、その実在性については疑問視されています。特に舜天が源為朝の子だという伝承は、後に琉球王国が薩摩藩の支配を受けた際に生まれた伝説と考えられています。
文献によって多少年齢が異なっていますが、とりあえず本稿は『中山世譜』を主な参考文献にしています。
