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日本人の物語01183【南北朝末期】洪武帝の怒り

中世の日本が外国と戦争する機会をほとんど持たずに済んだのは、幸運だったとしか言いようがないですね。
風邪が長引いており、最近は早めに寝るようにしています。しばらくは朝の更新になりそうです。

 話は後光厳上皇崩御の半年前に遡りますが、文中2/応安6(1373)年8月10日、久しぶりに南北朝の争いがありました。細川頼之の指示を受けた楠木正儀が、天野の金剛寺(大阪府河内長野市)を攻撃し、南朝の四条隆俊を討ち取ったのです。長慶天皇は天野を捨てて吉野へと撤退していきました。
 明確な時期は不明ながら、この直後あたりに南朝の主力武将・橋本正督が北朝に帰順しました。主力のほとんどが離反したわけで、南朝方はもはや後がありません。
 優位に立った幕府方は、明との外交権を南朝の手から取り戻すべく動き始めました。文中2/応安6(1373)年8月29日、義満と頼之は明の使者と謁見し、返礼の使者として聞渓円宣(もんけいえんせん)を派遣することと、使者に持たせる洪武帝への献上品を決めました。
 ところがこの使節は上手く機能しませんでした。翌文中3/応安7(1374)年5月に聞渓円宣たちは明の首都・南京に到着しましたが、洪武帝は面会を拒否した上、義満の献上品と国書を受け取らなかったのです。
 洪武帝の言い分は、明史によると
「我が国の使者を2年も拘留し、さらに『良懐』ではなく『持明』という別の王が使者を送ってくるとは無礼である。しかも王が幼いのを良いことに臣下が権力をほしいままにしていると聞いている」
というものでした。「良懐」こと懐良親王から持明院統の天皇(後円融天皇)に窓口を取り戻そうと努力しているわけですが、なかなか真意が伝わらないようです。
 また「王が幼いのを良いことに」とありますが、このとき後円融天皇も義満も15歳ですから、権力をほしいままにしている臣下とは細川頼之を指すのかもしれません。
 このように義満が初めて送った使節は何ら成果を上げられないまま空しく南京を後にしたのですが、洪武帝は使者・聞渓円宣には気を遣ってくれたらしく、絹織物を与えてくれました。
 明との交渉窓口を幕府方に取られた形となった九州南朝政権は、前年に菊池武光を失ったのに続き、5月26日、武光の子・武政までも病で失ってしまいました。2年連続で当主を失った菊池家を、武政の子で11歳の武朝(たけとも:1363~1407)が背負うこととなりました。
 この前年の文中2/応安6(1373)年8月25日には、尊氏を支えた盟友・佐々木道誉も死去しており、世代交代が進んでいるようです。

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