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日本人の物語01251【室町/義満期】義満、北山第に入る

大内義弘、ひどく強気ですよね。それにしても世界遺産・金閣寺の造営に携われれば相当な栄誉だったと思うのですが、それを断るとは。まあ後にそんなに評価される建物になるとは分からんか。

 応永4(1397)年3月。今川了俊に代わって任命された九州探題渋川満頼に対し、少弐・菊池らはまたもや反乱を起こしました。既に南北朝の合一が行われたというのに、九州はなおも揉めています。
 大内義弘は弟の盛見(もりみ又はもりあきら:1377~1431)・満弘ら5千騎を九州に派遣して鎮圧に当たらせましたが、12月に筑前で満弘が戦死するほどの大打撃を受けました。満弘は命を張って戦ったというのに、将軍義満は満弘の遺児に特段の恩賞を与えず、当主義弘は義満に大きな不信感を抱くこととなります。
 時折しも、義満はこの頃、北山第の建設工事を始め、諸大名を動員していました。北山第とは、後に鹿苑寺金閣と呼ばれるあの建物です。しかし義弘は、満弘の遺児への恩賞がないことを余程根に持っていたのか、
「当家の家臣は戦闘を生業としており、土木工事に使役されるいわれはない」
と放言し、工事への参加を拒みました。義満の反応は記録されていませんが、こうした小さな出来事が後の大内討伐(応永の乱)に発展した可能性はあります。
 応永5(1398)年4月、義満は完成した北山第に転居し、「北山殿」と呼ばれるようになりました。一方、室町御所に住み続ける4代将軍義持は「室町殿」の名を引き継ぎます。
 洛外に出たものの、最高意思決定権者の地位は相変わらず義満にあります。平清盛が遠く福原から京にいる宗盛を遠隔操作したように、義満は北山から室町を、あるいは宮中をコントロールします。
 だいぶ先の話ですが、応永14(1407)年に義満は
「わが庵は 世を宇治山に あらざれば 都の方を 巽にぞみる」
という狂歌を詠んでいます。これは百人一首にも撰ばれた喜撰法師の
「わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり」
のパロディであり、都の南東(巽)に位置する宇治山に住んだ喜撰法師が、世を「憂ぢ」と考えているのと異なり、義満は我が世を謳歌しているからこそ都の北西に位置する北山第に住み、都が南東方向に見えるというのです。つまり自分は京に住む天皇より上位に位置するのだという自負が見て取れます。
 北山第の工事に参加しなかった大内家に対し、様々な憶測が囁かれました。「義満への謀反を企んでいるのでは」などと不穏な噂が流れる中で、応永5(1398)年7月26日、義満は北山第を出て洛中の大内義弘邸を訪問しました。これは噂を確かめるための敵中視察とも捉えられますし、「義満は義弘を信頼している」とのポーズを見せて噂を打ち消すためのパフォーマンスとも捉えられますが、いずれにせよ大内家は義満の動員命令を拒否したことでまずい立場に追い詰められていきます。

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