日本人の物語01332【室町/義持期】甲斐と越後の乱収束
今回は、持氏の厚顔無恥な性格がよく分かるエピソードです。
義持と持氏の関係がだいぶ改善してきたところで、応永32(1425)年8月中旬、持氏は武田信長討伐のために榎下上杉憲直を甲斐に派遣しました。
甲斐守護人事をめぐっては、幕府方が推す武田信重と持氏が推す逸見有直が揉めていた中、武田信長が推す伊豆千代丸が漁夫の利を得る格好で事実上甲斐国を牛耳っていました。その後、持氏は幕府方に譲歩して逸見有直という案を撤回し、幕府の推す武田信重の守護就任を認めたため、武田信長は幕府と持氏にとって共通の敵となったのです。つまり今回の持氏の派兵は、幕府の命に従ってのものです。
幕府に従順な姿勢を示した上で、持氏は次期将軍の座を露骨に狙い始めました。11月30日、持氏は建長寺の長老を京に派遣し
「御息なきの間、御猶子として上洛せしめ、奉公を致すべきの由」
(義持にお子がない間、私が養子となって上洛し、奉公したい)
を申し入れました。あまりに突然の申し出に義持は困惑し、長老に対面もしませんでした。ただ、これは風聞として記されている話であって、事実かどうかは不明です。
いずれにせよ、義持にとって持氏を後継者とすることは全く思案の外だったようです。確かに持氏はここ最近、急速に幕府に従順に振る舞ってはいますが、昨年までひどく対立していた相手です。しかも義持は前年までに篠川公方満直と接近しており、持氏を廃して満直を鎌倉公方に据えようとすら考えていたわけですから、持氏の要求は非現実的としか思えません。
武田信長追討の件は、翌年に決着がつきました。持氏が派遣した討伐軍に加え、応永33(1426)年6月に幕府が派遣した一色時家(いっしきときいえ:?~1477)の軍が猿橋(山梨県大月市)で信長軍を破ったのです。その後、持氏方には武蔵国の白旗一揆(有力国人たちの集合体をいいます)までもが加勢するようになり、田原(山梨県都留市)でも信長軍に勝利しました。
敗色濃厚となった武田信長は、8月下旬に降伏しました。許された信長は鎌倉府に出仕するようになりました。
幕府方の上杉頼方と持氏方の上杉幸龍丸が争っていた越後応永の乱も、この年にようやく決着がつきました。10月16日に細川満元が死去したことで頼方の後ろ盾がなくなったこともあり、義持は11月17日に満済を呼んで
「上杉頼方の戦い方は全くダメだ」
と述べ、越後守護を頼方から幸龍丸へと交代させるよう指示しました。頼方は没落し、現地で頼方の代わりに戦っていた子の頼藤(よりふじ)もやがて幸龍丸に降伏しました。越後応永の乱はこうして収束したのです。
今回「漁夫の利」という言葉を使いました。小学生の時分に何かの本で「『漁父』の利と書きます。誤って『漁夫』と書かないように気を付けましょう」というのを読んだ記憶があるのですが、今回ネットで調べたら「漁夫の利」が正しいそうで。私が昔読んだ本は何だったのだろうと不思議に思っています。
