日本人の物語01532【室町/東国/享徳の乱】「薄衣状」の謎
今日はちょっといつもと違って謎の多いお話です。
さて、東国の戦乱は西国におけるそれと比べ、史料不足で戦闘の詳細がいまいち伝わっていません。本章で説明している「享徳の乱」も、今後お話しする「応仁の乱」に比べるといまいち粗い状態でしか解説できないわけです。
同時代の東北地方での争いは、それ以上にさっぱり分かっていません。まさにこの享徳の乱と並行して、東北では奥州探題・大崎教兼(おおさきのりかね)に制御できない規模の国人たちの争いがあったようなのですが、その詳細が全く不明なのです。
この争いを読み解くための最大のヒントとなる文書が、文明元/享徳18(1469)年12月13日付けで薄衣(岩手県一関市)を治める薄衣経蓮(うすぎぬけいれん)という人物が大崎教兼に送った書状で、歴史家が通称「薄衣状」と呼んでいるものです。内容は概ね次のようなものです。
〇私は父子2代に渡って公方様(大崎教兼のこと)にお味方し、特に佐沼城(宮城県登米市)を陥落させて忠誠を見せました。
〇今回の事件は、上形氏と富沢氏が二迫彦二郎を恨んで切腹に追い込み、さらに過分な欲を持ったことにあります。古川氏の計略で富沢がお咎めなしとなり、これを不服と思った柏山氏・金成氏・黒沢氏が富沢を殺してしまいました。この一件では私も公方様に嫌われ処分の対象となりましたが、最近やっと赦免を受けたところです。
〇その後、氏家三河守や氏家安芸守が公方様に背いて悪行を働き、さらに平塚久元までもが背いたため、百々氏(どうどうし)は亡命を余儀なくされました。
〇公方様は石川越前禅門や中目禅門を使者として江刺三河守のもとに派遣され、協力を要請するも断られました。そこで私がお味方しようと、昨年の閏10月15日に江刺三河守とともに出陣しましたが、江刺の弟が不意に裏切り、長谷城(山形県山形市か)に籠城することとなりました。その後も反乱軍との戦いは続いております。
〇来年2月にも、公方様自ら出陣されるよう切望いたします。公方様に加え、伊達兵部少輔成宗も出陣すれば、敵を殲滅することはたやすいと存じます。
いやはや、東北が大混乱に陥っていることが分かりますが、有用な史料が他にないため上形だの富沢だのがどんな対立構造でどの程度の期間戦っていたのかがさっぱり分かっていません。多くの人名が登場するものの、どこを治める誰なのか不明です。
そもそもこの書状自体、「12月13日」という日付は入っていても年が書かれておらず、「昨年の閏10月15日」という日付をヒントに
「閏10月を有する年は応仁2(1468)年か明応7(1498)年の二択である」
→「伊達成宗(だてしげむね:1435~1487)の生没年から考えてこの書状は応仁2(1468)年の翌年に出されている」
と推理してようやく年代が特定されたものなのです。
15世紀の東北はかくも謎に包まれているわけで、今後の研究が待たれるところです。
15世紀の東北は4世紀の日本に似ていますね。断片情報しかなく、分析が不可能です。
