日本人の物語00830【建武期】護良親王殺害さる
井出の沢の戦いに敗れた足利直義は、建武2(1335)年7月23日、成良親王を連れて鎌倉を脱出することとなります。
このとき直義は、家臣の淵辺義博(ふちのべよしひろ:?~1335)に対してあろうことか護良親王殺害を指示してしまいます。
仮に護良親王を放置すると、鎌倉を占領した時行はこの護良親王を旗印にして、皇族の権威を利用して兵を集めるようになるでしょう。それを防ぎたいという気持ちは分かりますが、生かして連れ出すだけの余裕はなかったのでしょうか。後醍醐天皇を敬う尊氏であれば護良親王を殺すことはなかったでしょうが、直義は簡単に殺すという決断をしてしまうのです。直義は後醍醐天皇に対する敵意が最初から強かったように思われます。
淵辺義博が護良親王の幽閉された土牢に入ると、護良親王は
「私を殺しに来たのだな。分かっておる」
と言うやいなや、淵辺の太刀を奪おうとしました。淵辺が腰の刀で首をとろうと斬りかかりますが、護良親王はその刀を口で嚙み砕き、刀は折れてしまいます。淵辺は脇差を抜いて護良親王の胸を刺し、弱ったところを髪をつかんで首を斬りました。
淵辺が外へ出て首を確認してみると、首はまるで生きているように両眼を見開いたまま自分を睨みつけていたので、淵辺は
「このような首は主君に見せるべきではない」
と判断し、近くの藪の中に首を捨てて立ち去ったといいます。
この護良親王が幽閉されていた場所は鎌倉のどこだったのでしょうか。
有力説は、当時鎌倉にあった東光寺と呼ばれる寺院に幽閉されていたとする説です。東光寺はその後廃寺となりましたが、後世に明治天皇の命でそこに「鎌倉宮」という護良親王を主祭神とする神社が建てられました。ここに参拝すると、護良親王が幽閉されていたという土牢を見ることができます。
また、鎌倉宮は護良親王の身代わりとなって死んだ村上義光(00770回参照)をも祀っています。「撫で身代わり」と呼ばれる義光像があり、これを撫でると災厄を身代わりになって受けてくれるご利益があるといわれています。
なお、淵辺義博は主君の命に背いてこっそり護良親王を助けたという伝説もあります。それによると、淵辺義博は護良親王を自らの領地である淵野辺(神奈川県相模原市)に連れていきますが、さらに安全な地を求めて石巻(宮城県石巻市)に送ったというのです。このとき、主君の命に背いた淵辺は自らの妻子に害が及ぶのを恐れ、妻子と縁を切ることとし、境川にかかる橋のたもとで妻子と別れたといいます。その橋は現在「中里橋」といいますが、別名「別れ橋」と呼ばれ、たもとには「縁切り榎木」と呼ばれる木があります。
