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日本人の物語01269【室町/義満期】准母問題 関白の困惑

暑すぎてしばらく仕事以外は外出する気になれません。

 公卿らは、義満の謎かけの本意が分からず苦しんでいました。ある人が後円融上皇の母に当たる崇賢門院仲子(広橋仲子)を准母に立てる案を挙げたところ、義満は
「帝の祖母ではないか。論外である」
と一蹴しました。このように、義満の中に答えは一つしかなく、皆が気づかない限り話は進みません。
 その場で答えに気づいたのは伝奏(公家の中で幕府との交渉窓口を担当する者)を務める裏松重光でした。義満の側近でもありつつ関白・一条経嗣とも近しい人物です。重光は一条経嗣の元へ行って一部始終を報告しつつ、自らの考えを述べました。
「北山殿(義満)は、結局は奥方を立てようと決めておいでのようです」
 つまり、義満の真意は自らの妻・裏松康子(うらまつやすこ:1369~1419)を天皇の准母に据えることだというのです。ちなみに義満の正室であった裏松業子はこの前年に死去しているため、正室の座はその姪である康子に引き継がれていました。
 義満の妻が天皇の母になるということは、あたかも義満自身は天皇の父になったかのような擬制が生じます。いや、特段そのようなルールはなく、「何となくそう見えるかもしれない」という程度ですが、義満はそれを意図しているのでしょう。
 裏松重光にとって康子は姉に当たるため、康子が准母となることに反対する理由はないのですが、重光から
「明日、関白様(経嗣)から尊号などの手続を進める旨、北山殿(義満)にお話しください」
と言われた一条経嗣はひどく困惑しました。
 応永13(1406)年12月27日。一条経嗣は重い足を引きずって北山第へ向かいました。このときのやり取りが経嗣の日記『荒暦』に残っているので、詳しく見ていきましょう。
義満「わざわざの来訪、痛み入る。さて国母の病状だが、今のご様子では今日にも明日にもご逝去されるおそれがある。二度目の諒闇となるが、極めて不吉である。いかがなさるか」
経嗣「ごもっともです。大変なことです」
義満「そこで思いついたのだが、崇賢門院(仲子)をもって准母と定めるほか、収める方法がないと思うのだが、お考えはどうか」
 ここで義満は、先日自分が否定したばかりの案を持ち出しました。
 義満の話し方はいかにも回りくどく、読んでいてイライラします。やりたいのは自分なのに、そのアイデアをあえて言わずに相手から発案するように仕向けようというわけで、極めて悪趣味です。一条経嗣は、義満以外は誰もやりたがっていない方策を、自分から提案せざるを得ない状況に追い込まれています。

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