日本人の物語01555【室町/西国/応仁の乱】西岡の戦い
最近、高校世界史の参考書を読んでいるのですが、事実が淡々と記されているだけの本は読みづらいですね。著者なりの解釈やらがしっかり書かれていないと、読み手の頭に入ってきません。私ももう少しそれを意識して書こうと思いました。
東軍不利の状況が続く中、細川勝元はかつてなら禁じ手とされていた策を次々と実行に移していきました。前述の「①骨皮道賢のような足軽を用いた放火・略奪」もその一つですが、勝元はさらに「②国人を利用したゲリラ戦」「③地方での戦闘」「④敵軍の有力武将への寝返り勧誘」を進めていきます。②~④を順に見ていきましょう。
桂川の西側に西岡(京都府向日市・長岡京市)と呼ばれる地域があり、ここは農業用水路が発達していたため有力な国人が多く住んでいました。それら国人の中でも、野田氏・中小路氏・竹田氏といった面々は平素から幕府の恩顧を受けていた者たちで、勝元の働きかけを受けて西軍にゲリラ戦を仕掛け、戦果を上げていました(②)。
そこで西軍は、応仁2(1468)年9月、西岡に総攻撃をかけましたが失敗に終わりました。これが第一次西岡の戦いです。10月10日には第二次西岡の戦いが行われますが、これまた西軍の敗北に終わりました。
次に勝元は、中央のみならず地方でも西軍武将に圧力をかけました(③)。同年9月には細川家臣にして丹波守護代を務める八木城(京都府南丹市)主の内藤貞正(ないとうさだまさ:?~1525)が、丹後国内で一色義直の軍を破りました。翌年8月には逆に丹後から西軍・一色信長(いっしきのぶなが)が丹波に攻め入り、東軍方の天竺賢実(てんじくかたざね:?~1469)を討ち取っています。
さらに勝元は西軍最強武将たる朝倉孝景に目を向けました(④)。
時折しも、応仁2(1468)年閏10月14日に越前国内で斯波義敏軍と斯波義廉軍の戦乱があり(といっても両者とも大将は在京しているので、その配下の兵たちの争いです)、東軍・義敏方が西軍・義廉方を破りました。
義廉の家臣である朝倉孝景は、越前での戦いが上手く進んでいないことに気を揉み、自ら指揮を執るために京を発って越前へと向かいました。息子の氏景(うじかげ:1449~1486)に「3月には京に戻る」と言い残しましたが、まさかこれ以降一度も帰洛できずに生涯を終えることになるとは思わなかったでしょう。
孝景がわざわざ越前に下国したのは、もちろん義廉軍に加勢して義敏軍との戦いを有利に進めたいとの気持ちもあったでしょうが、それ以上に、甲斐敏光(かいとしみつ)との主導権争いに勝ちたいとの思いがあったためでしょう。越前では、守護たる斯波家を支える守護代に甲斐家と朝倉家が交互に任じられており、両家はライバルだったのです。特に朝倉孝景と甲斐敏光の家臣同士は既に武力衝突まで起こしていたため、こうした状況を捨て置けず孝景は越前に下り、閏10月25日に到着したのでした。
勝元は、西軍同士で争っている越前に目をつけ、孝景を東軍へ引き込もうとします。孝景に最初に寝返りを誘う書状を送ったのは、伊勢から京へ戻ってきていた伊勢貞親でした。その工作が上手くいったかどうかは、もう少し後で取り上げることになります。
朝倉孝景は二人(室町時代と戦国時代)おり、二人とも大きな活躍を見せています。
