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日本人の物語01428【三山】三人の暗君

3人とも、金太郎飴を切ったかのような絵に描いた暗君です。

 洪武29(1396)年。察度の子・武寧(ぶねい:1356~1406)が2代中山国王に即位しました。この武寧はひどい暗君だったと伝えられており、『中山世譜』には、
「世は衰え、道は廃れ、父の遺命に背き、内には色を好み、外には政を怠り、群臣の賢か否かの見わけもつかず、民草の悲しみも喜びも顧みず、朝に夕に遊びを好んで獣と戯れた。按司たちはみな背いた」
とあります。
 そもそも察度も若い頃働きもせず遊んで暮らしていたわけで、似た者父子かもしれません。察度が天下を取ったのは、気前が良かったことと妻・眞鍋樽が有能だったからでしょう。
 ここで中山王国の話はさておき、北山・南山の状況についても見ていかなければなりません。中山王国が(恐らく)浦添城を拠点としたのに対し、北山王国は今帰仁城(沖縄県今帰仁村)、南山王国は南山城(沖縄県糸満市)を拠点としていました。
【北山王国の状況】
 初代・怕尼芝は親川城(沖縄県名護市)を拠点として羽地(はねじ)一帯を治める羽地按司でした。名の怕尼芝(はにじ)は羽地の当て字と考えられています。
 怕尼芝は1322年に従兄弟が城主を務めていた今帰仁城を乗っ取って北山王国を建国したわけですが、洪武28(1395)年に崩御し、子の珉(みん)が2代国王となりました。珉には特段のエピソードが残っていません。
 珉の子の3代国王・攀安知(はんあんち:?~1416)はひどく驕慢な人物で、色欲に溺れて領民を虐げていました。
【南山王国の状況】
 承察度が周辺の国々をまとめて1337年に南山王国を建国しましたが、その子の2代温沙道(おんしゃどう)の時代になると、実権は叔父の汪英紫(おうえいじ:?~1402)に握られてしまいました。
 洪武31(1398)年、温沙道は汪英紫の陰謀によって廃位され、朝鮮半島へと亡命しました。汪英紫は3代国王となり、さらに次男の汪応祖(おうおうそ:?~1413)を4代国王に据えますが、長男の達勃期(たふち:?~1414)は弟が国王になったことを妬み、永楽11(1413)年に弟を滅ぼして自ら5代国王となりました。
 按司たちは達勃期を国王として認めず、翌永楽12(1414)年に達勃期を滅ぼし、汪応祖の子の他魯毎(たるみい:?~1429)を6代国王に据えました。
 しかし他魯毎はとんでもなく横暴な性格で、一切政治を省みず酒色に耽りました。
 以上のとおり、中山の武寧、北山の攀安知、南山の他魯毎、3人とも暗君だったと正史は伝えていますが、その暗君ぶりについて具体的な描写はありません。明らかに「暗君だから滅ぼしても良いのだ」と主張するためであり、信頼に足る記述ではないでしょう。

琉球放送が製作した琉球歴史ドラマ『尚巴志』を見ましたが、汪応祖はチョイ役、攀安知は重要な敵キャラ、他魯毎はほとんど登場しないという状態でした。

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