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日本人の物語01211【南北朝最末期】義満の苛立ち

北朝の初代光厳~5代後円融までは歴代天皇に数えられていないので、何とも可哀想ですね。

 後円融天皇がかくも卑屈に振る舞うのは、恐らく父・後光厳の即位時の状況が異常だったためでしょう。かつて後光厳天皇は三種の神器も、院による指名もない異例の形で即位しましたが、その後光厳の子である後円融は、自らの天皇としての正統性に強いコンプレックスを抱いていました。しかも従弟の栄仁親王は父親の崇光上皇が未だ存命で強力な後ろ盾となっているのに対し、自らの後ろ盾であった父・後光厳は既に崩御しているのです。
 後円融にとって義満は自らの権威を貶める存在であって、決して好きにはなれない相手だったでしょうが、崇光派に対抗して自らの子を次期天皇に押し上げるためには、義満を取り込むほかありません。というのも、後円融にとって義満は母方の従兄に当たり、数少ない味方なのです。そこで後円融は義満に「次期天皇を指名してくれ」とまで述べて過度に卑屈な態度をとることで、義満の支持を取り付けたのでした。
 しかし義満にとって、天皇から過度に依存されることは迷惑だったようです。このやり取りから2ヶ月半が経過した弘和2/永徳2(1382)年閏1月11日、天皇は再び義満に対し、皇位継承者として誰を推薦するか尋ねました。前回支持する旨を明言してもらったのに、それが密室での二人きりのやり取りだったことからなおも不安になって、今度は女房・日野宣子(ひののぶこ:1328~1382)がいる前で再度明言してもらおうと思ったようです。
 天皇のこの態度に、義満はイライラを爆発させました。
「なぜ同じ質問を何度も繰り返されるのですか。皇位継承者については陛下がご自身で決定すべきです。私に対しては、その儀式の段取りについてのみ命じてください。私は言われたとおりに粛々とやるだけです」
 つまり天皇は、崇光派を抑えるために義満の権威を借りようとしており、義満が決定したという形で自らの子に皇位を継がせたいわけです。ところが義満からすると、そのような僭越な越権行為は義満自身の評判を落とすだけです。なぜそのようなリスクを他人に丸投げするのかと、義満は怒ったのです。
 この頃、義満は左大臣に昇進していました。閏1月19日、左大臣拝賀の儀にやって来た義満に対し、後円融天皇は
「皇太子を立て、そのついでに皇位を譲りたい。関連儀式を取り仕切ってくれ」
と命じました。一週間前に怒られたことを受けて、今回はちゃんと自分の意志で譲位を決定し、関連儀式を指示したのです。
 こうしてようやく、譲位の段取りが通常通りに始まることとなりました。しかし後述するとおり、この義満と天皇のやり取りは決定的な亀裂を生んだのです。

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