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日本人の物語00479【平安末期】平家都落ち 維盛

 二度も壊滅的打撃を受けた平家軍は、もはや首都防衛戦に勝利することが期待できなくなっていました。
 寿永2(1183)7月20日。清盛の三男・宗盛と四男・知盛は、都落ちについて相談を始めます。つまり首都で戦うのではなく、一旦西に逃げてから戦おうというわけです。
 二人は、
「都を落ちる際には、後白河法皇と安徳天皇を連れ出すべき」
との意見で一致を見ました。法皇と天皇を握っている側が正義ですから、当然の決定だと思います。
 ところがこの二人の議論について、平家の味方であったはずの摂政・近衛基通が情報をつかみ、後白河法皇に話してしまいます。
 7月25日に平家は平安京を出発して西国へ落ちのびて行きました。このとき平家は、安徳天皇の連れ出しと三種の神器の持ち出しには成功したのですが、後白河法皇を連れ出すことができませんでした。後白河法皇が事前に密かに鞍馬寺に脱出していたため、見つけられなかったのです。
 このことが、平家の運命を決定付けたといってよいでしょう。
 さて、都落ちをめぐっては、平家物語に平家の公達の悲喜こもごものエピソードが記されています。
 まず、重盛の長男・維盛の話から紹介しましょう。
 維盛は、妻子をあえて都に残したまま西国に落ちていきました。妻子を戦闘に巻き込みたくなかったのでしょう。
 ちなみに維盛の妻といえば、鹿ヶ谷の陰謀で平家打倒を企図し、刑死した藤原成親の次女に当たります。都に残すことで妻の身柄がアンチ平家方の手に渡ったとしても、恐らく丁重に扱ってもらえるはずです。
 別れ際に、維盛は妻に
「自分が死んだら遠慮なく再婚してほしい」。
と言い残しており、この時点で死を覚悟していたものと思われます。
 一方、維盛の妻は
「誰とも再婚する気持ちなどありません。一緒に生き、一緒に死のうと約束しましたのに」
と泣いてすがりましたが、維盛の気持ちは変わりませんでした。
 維盛にとって、これが妻子と会う最後の機会となってしまいます。

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