日本人の物語00710【鎌倉後期】浅原事件
持明院統が全盛を極める中、都で不思議な事件が起こりました。
正応3(1290)年3月10日未明、二条にある天皇御所で、不審な物音によって女房たちが目を覚ますと、部屋の中に見るからに恐ろしい大男が3名、武装して仁王立ちになっているのを発見しました。男たちが
「帝の寝所はどこか」
と尋ねてきたので、女房たちは危険を感じて虚偽の方向を教えました。賊があらぬ方向を捜索に行っている間に、女房たちは伏見天皇の寝所に行って慌てて避難を呼びかけました。伏見天皇は三種の神器と皇室伝来の管弦を持って春日殿に、皇太子・胤仁親王は常盤井殿に、それぞれ脱出しました。
賊らは天皇の寝所を捜索しますが既に天皇の姿はなく、騒ぎを聞きつけた武士たちがそこを包囲したため、自害しました。
その後、賊3名は甲斐源氏出身の浅原為頼(あさはらためより:?~1290)と、その子の光頼(みつより:?~1290)・為継(ためつぐ:?~1290)と判明しました。為頼は伏見天皇の寝具の上で自害したらしく、血を穢れとして忌み嫌う当時の宮中ではあまりに恐れ多い不祥事だったことでしょう。
浅原為頼らは霜月騒動に連座して所領を没収された過去があったので、犯行動機は平頼綱への恨みであろうと考えられますが、頼綱と伏見天皇が良好な関係を保っているからといって、その恨みが頼綱自身ではなく天皇に向けられるとは不思議です。為頼が事件の際に御所内で使った矢には「太政大臣源為頼」と記されており、誇大妄想の気のある人物だったようなので、伏見天皇を狙ったのには常人には理解できない理由があったのかもしれません。
さて、この事件は思わぬ波紋を呼びました。為頼が自害した時に用いた太刀が、公家・三条家に伝わるものだったため、参議・三条実盛(さんじょうさねもり:?~1304)の関与が疑われることとなったのです。まして、三条実盛は大覚寺統に近しい者だったので、大覚寺統が持明院統を恨んで起こした事件である可能性が指摘されたのです。
六波羅探題は実盛を捕縛して捜査を始めました。結局証拠は出ず、実盛は早い段階で釈放されたのですが、大覚寺統の陰謀だとする噂は止みません。持明院統に近しい関東申次・西園寺公衡(さいおんじきんひら:1264~1315)は
「(亀山)法皇を処分すべきです」
と進言しますが、後深草法皇は
「気の毒なことではないか。事実でないことを人はよく作り出して噂するものだ」
と言って取り合いませんでした。
亀山法皇は幕府に対して無実を誓う起請文を送り、幕府もそれ以上の追及はしませんでしたが、この事件は両統の対立に暗い影をさすこととなりました。
