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日本人の物語00611【鎌倉前期】泉親衡の乱

 建暦3(1213)年2月15日。「泉親衡の乱」という事件が起こります。泉親衡(いずみちかひら:1178~1265)は、相模国泉(横浜市泉区)を拠点とする有力御家人のはずなのですが、吾妻鑑での登場回数が極端に低く、その実像ははっきりしません。
 事の起こりは、泉親衡に仕える郎党・安念坊(あんねんぼう)という僧が千葉成胤(ちばなりたね:1155~1218)を訪ね、
「泉親衡が前将軍頼家の三男・栄実(えいじつ:1201~1214)を擁して挙兵し、北条義時打倒を企てている。参加してほしい」
と協力を求めてきたことでした。
 成胤はそのような計画には乗らず、直ちに安念坊を捕縛して義時の元へ連行していきました。安念坊の自白により、泉親衡に与した武士は300人にも上ることが明らかとなりました。泉親衡はいち早く逃亡し、その後の行方は不明です。
 安念坊が語った共犯者の名前の中に、侍所別当という大幹部である和田義盛の縁者が3名含まれていたことで、御家人たちは騒然となりました。
・和田義直(わだよしなお:義盛の子:1177~1213)
・和田義重(わだよししげ:義盛の子:?~1213)
・和田胤長(わだたねなが:義盛の甥:1183~1213)
 当時、義盛は領地である上総国伊北庄(千葉県大多喜町)に行っており、留守でした。重鎮義盛が不在の中、この3人は直ちに捕縛されました。
 この事件は、どうも北条義時が和田一族を滅ぼすために演じたでっち上げのような気もします。そもそも泉親衡などという正体不明の無名な人間が、鎌倉で300人もの御家人を集めて謀反計画を立てられるとは思えません。そんな重要人物ならば、吾妻鏡にもっと頻繁に登場するはずだと思うのです。
 そして、その肝心の泉親衡が行方不明で、その後幕府は全くこれを発見できないまま一切登場しなくなるのです。まるで和田一族に罪を着せるために用意された捨てキャラのように見えます。
 北条と和田が一触即発の状況となった2月30日、将軍実朝は寿福寺の栄西を訪ね、合戦の回避のための祈祷を依頼しました。栄西といえば、臨済宗の開祖として知られている僧侶ですね。実権がない将軍ではあっても、どうにかして事態を解決させたいと考えていたようです。
 しかし実朝の意に反して、事態は悪い方へと動いていきます。

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