日本人の物語00261【平安前期】遣唐副使・小野篁*
図らずも皇太子の座についてしまった恒貞親王は果たしてどうなってしまうのか、気になるところですが、その続きは次回に回すことにして、先に承和5(838)年の遣唐使派遣についてお話ししなければなりません。
承和5(838)年。通算第19回目の遣唐使が派遣されることとなりました。
派遣に当たっては、藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ:796~840)が大使に、小野篁(おののたかむら:802~853)が副使に任ぜられました。しかし出発目前に、藤原常嗣の第一船が損傷して漏水してしまいます。そこで常嗣は、
「小野篁の第二船と取り替えよう」
と決定しました。壊れた船は、小野篁が適当に修理しろというわけです。
小野篁は、
「このような不合理がまかりとおるようでは部下を率いることはできない」
と言って乗船を拒否し、職務をボイコットしました。なかなか男気がある人物だなと思いますが、これにより小野篁は隠岐に流罪となってしまいます。短気は損気ですね。
隠岐に行くに当たって小野篁は、
「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人にはつげよ あまの釣船」
(広い海を、たくさんの島々を目指して漕ぎ出して行ったと都にいる人々に告げてくれ、漁師の釣り船よ)
と詠みました。これは百人一首に収められ、よく知られています。
ちなみに、小野篁については『宇治拾遺物語』に面白いエピソードが載っています。
嵯峨天皇の時代、内裏に「無悪善」と書いた立て札が立てられました。嵯峨天皇が小野篁に読み方を尋ねたところ、小野篁は「読みたくありません」と答えます。何度も促すと、いやいや答えたのは、
「さが(悪)なくてよからん」(嵯峨天皇がいなければよいのに)
という読み方でした。嵯峨天皇に「嵯峨」という諡名がつくのは崩御後のことですが、早い段階で嵯峨に別荘を持っていたそうですから、「嵯峨の帝」などと呼ばれていたものと考えられます。
嵯峨天皇が「これが読めるということは、お前が書いたからだろう」と怒ると、小野篁は「違います。私は何でも読めるのです」と弁明します。
嵯峨天皇が「ならばこれを読んでみよ」と言って差し出した紙には
「子子子子子子、子子子子子子」
と書かれていました。小野篁はたちどころに
「ねこのここねこ、ししのここじし」
と読んだため、嵯峨天皇の怒りは解けたというのです。
小野篁は、物怖じしない性格で、天皇に対してもずけずけと物を言う人間だったようです。

