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日本人の物語01377【室町/義教期】永享の乱 持氏自害

これまでさんざん幕府を振り回してきた持氏ですが、最期は実にあっけないですね。

 永享10(1438)年10月6日。憲実は越後軍とともに南下し、分倍河原(東京都府中市)に着陣しました。ここから、幕府方に寝返ったばかりの二階堂盛秀とともに鎌倉を攻めるわけです。
 このとき持氏は海老名の陣にいたため、鎌倉を守るのは嫡男の義久でした。勝ち目がないと悟った義久は報国寺に逃れ、そのまま生け捕られます。鎌倉は憲実軍によって完全に占領され、持氏は鎌倉に戻ることができなくなりました。
 11月2日。観念した持氏は投降しようと鎌倉に向かいます。その途上、たまたま葛原(神奈川県藤沢市)で出会った長尾忠政(ながおただまさ:?~1450)に対して降伏を申し入れ、鎌倉に連行されて永安寺(神奈川県鎌倉市)に蟄居することとなりました。
 11月5日、持氏は側近の榎下上杉憲直、一色直兼とともに永安寺から称名寺(横浜市金沢区)に移り、剃髪を遂げました。出家によって死罪を免れようとしたのでしょう。しかし憲実は長尾忠政に命じて称名寺を攻撃させ、榎下上杉憲直と一色直兼を自害に追い込みました。
 問題は持氏の処遇です。将軍義教は当然に持氏処刑を命じますが、憲実は主である持氏だけは助けたかったらしく、
「どうしても死罪とするならば私も自害する」
とまで主張して助命嘆願を続けます。
 2ヶ月間もの交渉の末、永享11(1439)年閏1月、業を煮やした義教は、改めて憲実に持氏処刑を命じました。
「従わぬならば幕府方だけで処刑を実行する。あわせて憲実を糺弾することとなるぞ」
というのです。ここに来て憲実はやむなく将軍の命に従うことにしました。
 2月10日。再び永安寺へと移送されていた持氏は、憲実の命を受けた扇谷上杉持朝や千葉胤直の攻撃を受けて自害しました。永安寺には持氏に味方していた稲村公方満貞も蟄居していましたが、同様に自害に追い込まれました。
 2月28日には嫡男・義久も報国寺で自害させられ、永享の乱は終結しました。心ならずも主君を討つこととなった憲実は罪の意識にさいなまれ、剃髪して永安寺の持氏墓前で自決を図りましたが、家人に刀を奪われ未遂に終わります。憲実は家督を弟の清方(きよかた:1412?~1444)に譲って国清寺(こくせいじ:静岡県伊豆の国市)に隠棲することとなりました。
 翌3月には越智維通が長谷寺(奈良県桜井市)で討たれ、大和永享の乱も終結しました。こうして義教に逆らう勢力は一掃されたかに見えました。

憲実の潔さ、なかなか好きなんですよね。どんな主君であれ反逆は罪だという美学、実にかっこいいです。

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