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日本人の物語00895【建武期】金ヶ崎城の攻防*

 杣山から引き返して来たたった16騎の軍勢に騙されて金ヶ崎城を取り囲んでいた軍が逃亡してしまったことが分かり、尊氏・直義はひどく怒って再び大軍を派遣して来ました。斯波高経、今川範国、高師泰、塩冶高貞ら足利方の武将たちが集結し、総勢6万騎の大軍です。これが金ヶ崎城を取り囲んだのですから、僅かな隙間もありません。
 金ヶ崎城は三方が海に囲まれた半島に位置しており、南東の方角には城より少し高い山があるという地形です。この山に登ると城中を見下ろすことができますが、城に近づこうとすると深い谷に下りることとなり、なかなか近づくことができません。城内には少人数といえども、新田義貞・義顕父子のほか、脇屋義助や、新田四天王の一人である栗生顕友ら名将が揃っています。ちなみに後醍醐天皇の五男・恒良親王(当時天皇を名乗っていたはずです)や長男・尊良親王もいます。
 寄せ手の足利方は大軍で、士気高く攻め戦っていきますが、死傷者が毎日千人、二千人と増えていくばかりで、逆木一本さえも破ることができません。
 これを見た足利方の小笠原貞宗は、屈強な兵800人を選んで、東側の山の麓から南東の尾根を目指して登って行きました。金ヶ崎城から見てこれはなかなかの脅威だったらしく、城中から300人が出てきて戦闘となりました。
 両者とも一歩も退かない戦いです。両者ともさすがに疲れが見え始めたところに、栗生顕友が棒を振って敵陣の中に走り込み、足利方は次々と倒れていきます。さすがに敵わないと思ったらしく、足利方は退却していきました。
 この一連の戦いを観察していた今川範国は、
「あの場所が城にとって大きな弱点であったからこそ、城中から精鋭部隊が出て来て止めようとしたのだろう。しかし、あの場所は足場が悪くて容易に追い払われてしまう。陸が駄目なら、船で攻めてみよう」
と思い立ちました。
 足利方は小船を百艘ほど用意して、昨日小笠原が攻めた場所に海岸から上陸してみました。城壁にへばりついたところで、城中から兵200人が進撃して来て足利方500人は壁から転落し、ほうほうの体で船へと逃げていきます。
 太平記はこの戦いについて、
「足利方の中村六郎(なかむらろくろう)が重傷を負って逃げ遅れたのを、既に船に乗り込んだ野中貞国(のなかさだくに)が船を漕ぎ戻して必死に助けたので、敵も味方もこれをあっぱれと褒め称えた」
とのエピソードを載せています。
 いずれにせよ、金ヶ崎城はなかなか落ちない名城だったようです。

金ヶ崎城といえば、信長が追い詰められた「金ヶ崎の退き口」の方が有名になってしまったが、一応南北朝時代の戦いについても記載してくれている。2024年12月28日撮影。

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