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日本人の物語01691【戦国/東国/長享の乱】諏訪 高遠家の内紛

フォロワーがすごい勢いで増えていく時期と減っていく時期とがあるんですが、あれ何なんでしょうね。業者なんですかね。

 諏訪大社内の対立が深刻ですが、さらに小笠原家の対立も諏訪に影響を及ぼします。府中小笠原家では、文明10(1476)年2月18日に清宗が死去し、子の長朝(ながとも:1443~1501)がこれを継いだので、改めて3家をここでまとめておきましょう。
・府中小笠原家(長将→持長→清宗→長朝): 諏訪大社下社と同盟
・松尾小笠原家(長秀→政康→宗康→光康): 諏訪大社上社と同盟
・鈴岡小笠原家(政秀)
 文明12(1480)年7月28日。鈴岡小笠原政秀は、諏訪大祝・継満とつるむ伊賀良(長野県伊那市)の高遠継宗(たかとおつぐむね)を攻撃しました。継満は、その報復のため鈴岡城を攻撃すべく派兵を準備しました。
 問題は、継満が現役の大祝のため諏訪から出られないことです。本来はそのために惣領と大祝を分けてあるのですが、従兄弟に当たる惣領の政満とは対立しているため、助けは得られません。そのため継満は、大祝の座を一旦弟の高家(たかいえ)に譲って8月12日に鈴岡城を攻撃し、9月19日に諏訪に戻って再び大祝に復帰しました。それほどしてまで、自ら軍を率いたかったのでしょう。
 さて、松尾方と鈴岡方が戦っているのと並行して、府中小笠原長朝も大町(長野県大町市)を拠点とする宿敵・仁科盛直(にしなもりなお)と戦っていました。長朝は穂高(長野県安曇野市)で仁科盛直を破り、9月20日には山家城(長野県松本市)の山家光家(やまべみついえ)を破りました。仁科盛直も山家光家も諏訪大社上社の支援を受けている者ですから、これは上社と下社の代理戦争といえる戦いです。
 諏訪上社の惣領・政満は山家光家を助けるべく、翌文明13(1481)年4月23日に府中に出陣し、仁科氏や香坂氏とともに和田城(長野県松本市)を攻撃しました。府中小笠原家はたまらず和睦を申し出て、勝利を得た政満は5月6日に凱旋帰国しました。
 この時点では、惣領政満も大祝継満も「松尾小笠原家を支援しよう」という意図を共有できていたはずでした。それなのになぜ仲直りできないのでしょう。どうも先代から続く因縁はひどく根深いようです。
 そして文明14(1482)年6月になると、惣領家と大祝家の対立を決定付ける事件が起こります。それは諏訪上社が代々支援してきた信濃国人衆・高遠家の内紛でした。高遠継宗の家臣で、藤沢(長野県伊那市)を拠点とする保科貞親(ほしなさだちか)が主君・継宗に反乱を起こしたのです。
 諏訪大祝・継満はもちろん高遠継宗を支援しようと考えていましたが、あろうことか惣領の政満は保科方に加担してしまいます。これに怒った継満は政満を敵とみなし、遂に惣領家と大祝家の関係は冷戦状態から戦闘状態へとエスカレートしたのでした。

仁科も保科も長野県の苗字ですね。そういえば蓼科も長野県の地名だし、「科」を「しな」と読むのは長野県の文化なのでしょうか。

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