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日本人の物語01538【室町/西国/応仁の乱】乱の原因 従来説

ここでは古い説をあえてしっかり説明しておきます。

 近年、応仁の乱の原因や両軍の目的について、かつての通説とは大きく異なる実像が浮かび上がってきました。しかし、様々なフィクション作品や歴史通の皆さんの間では、今もなお「かつての通説」が幅を利かせています。そこで本稿では、まず「かつての通説」を説明していきましょう。以下の話はあくまで古い説だと思って聞いてください。
 応仁の乱の原因は、世紀の悪女・日野富子にあります。
 8代将軍義政は政治に無関心であり、早期に隠居したいと考えていました。そこで弟の義視を後継者に指名し、その義視の後見人に腹心の細川勝元を据えたのですが、その直後に富子との間に義尚が産まれてしまいます。富子は義尚を将軍に据えるべく、有力守護を味方につけることとしました。
 その筆頭が山名宗全でした。富子は宗全に手紙を送り、義尚擁立を助けてほしいと要請します。宗全を味方につけた富子はさらに味方を増やそうと考え、細川勝元に反感を抱く守護を探します。
 時折しも、「斯波義敏VS義廉」「畠山政長VS義就」という二つの内紛が発生していました。勝元は斯波義敏と畠山政長を支援していますから、富子はそれと対立する斯波義廉と畠山義就に声をかけ、味方に引き込みました。こうした富子の動きに対して、将軍義政は怒りを覚えながらも見ていることしかできませんでした。
 こうして応仁の乱の対立構造が出来上がりました。
【東軍:義視を推すグループ】細川勝元・斯波義敏・畠山政長(+足利義政)
【西軍:義尚を推すグループ】山名宗全・斯波義廉・畠山義就(+日野富子)
 細川勝元は将軍御所を本陣に置き、山名宗全は自邸を本陣に置きました。山名邸は将軍御所より西にあるため、勝元方を「東軍」、宗全方を「西軍」と呼びます。当然、将軍の属する東軍が正規軍であり、西軍が反乱軍ということになります。
 富子は将軍御所に居住しているわけですから、表向きは東軍に属しているのですが、裏では西軍を支援し続け、資金提供までしていました。
 戦乱勃発から1年半後、義視は東軍内での内紛によって失脚し、なんと西軍方に寝返ります(詳細は後述)。弟に裏切られた義政はやむなく実子・義尚を推すこととし、応仁の乱の対立構造は大きく変化しました。
【東軍:義尚を推すグループ】細川勝元・斯波義敏・畠山政長(+足利義政・日野富子)
【西軍:義視を推すグループ】山名宗全・斯波義廉・畠山義就
 文明5(1473)年には義尚が将軍に就任しましたが、応仁の乱は当初の目的を失ったのにダラダラと戦い続け、文明9(1477)年に勝敗のつかないまま和睦しました。
 以上が従来説であり、とにかく日野富子の人格に全ての元凶があるとする物語になっています。しかしこの説は現在は否定されているのです。

私が小学生の頃は日野富子は日本三大悪女の一人、などと教わった記憶があります。

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