日本人の物語00998【南北朝前期】上杉重能・畠山直宗の最期
高師直のヤバい話シリーズの一つです。これまでは史実かどうか分からん微妙な話が多かったのですが、これは史実っぽい気がします。というのも、上杉能憲が師直を恨んで、この後復讐に動くのは事実なんです。
さて、越前国に流罪となった上杉重能・畠山直宗のその後について見ていきましょう。
2人は所領を没収され、宿所も壊されたまま越前国へと流されました。二人はもはや京に戻って来られないことを覚悟し、妻子を連れて越前に赴いたのですが、寂しい旅路の途上、日頃からたしなんでいた琵琶を弾いたりして自らを慰めていました。そのうちに、配流の地である江守庄(えもりのしょう:福井県福井市)に到着しました。
上杉・畠山の2人を出迎えたのは、越前守護代の八木光勝(やぎみつかつ)でした。2人は粗末な柴の庵に押し込められます。都では檜皮の屋根の立て並ぶ立派な屋敷に住んでいたのに、今や時雨も風も防げないようなボロ家に住み始めたのです。
このような境遇に追い込んでもなお、高師直の気は晴れませんでした。師直は上杉・畠山を殺害すべく、ひそかに討っ手を放ちます。
正平4/貞和5(1349)年8月24日。八木は上杉の元に出向き、
「昨日の暮れ頃、執事殿(師直)の使者が当国に到着したので、何事か尋ねてみたところ、あなた方をお討ちするために下って来たとのことです。ここにいては無事では済みません。今夜急いで夜に紛れてお逃げになって、越中・越後あたりにお隠れになり、将軍のところへ申し開きに行かれるのがよいでしょう。きっとあなた方の罪は軽くなるに違いありません。どうかお逃げ下さい」
と述べました。
八木光勝は、元々は上杉に従っていた武士でしたが、高師直に誘われて心変わりをしたという経歴の持ち主でしたから、上杉・畠山はこれを信じて、取るものもとりあえず妻子を伴って53人で素足のまま加賀の方へと逃亡しました。
ところが、これは八木の仕掛けた罠でした。八木はあらかじめ近辺に、
「上杉・畠山らが逃亡するぞ。見かけたら問答無用で討ち取れ」
と触れ回っていたのです。あえて逃亡させることで、討ち取ることを正当化させたというわけです。
追っ手に囲まれた家人らは一斉に自害し、畠山もまた自害しましたが、上杉は刀を持ったまま泣くばかりで、自害のタイミングを逸してしまいます。そうこうしているうちに八木の手下に生け捕られ、刺殺されてしまいました。太平記は上杉重能の死に様について「実に見苦しかった」と締めくくっています。
重能は生前、従兄の子である能憲(よしのり:1333~1378)を養子として引き取っていました。能憲は義父の横死を知って怒り狂い、師直への復讐を固く誓います。
