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日本人の物語00489【平安末期】義経出陣*

 15歳の義経は奥州平泉に入り、そこで秀衡に気に入られ、6年間を過ごすこととなります。
 奥州藤原氏は、玉山金山(岩手県陸前高田市)から産出した金を元手に一大軍事圏・経済圏を築き上げ、鎌倉を拠点とする頼朝にとって大きな脅威となっていました。頼朝が兵を率いて西国に直接赴こうとしなかったのも、奥州藤原氏がいつ鎌倉に攻め寄せるか分からなかったからです。
 その奥州藤原氏のドン・藤原秀衡が義経と結びついたことは、頼朝にとっては権力構図をより複雑にする番狂わせだったでしょう。頼朝にとって未だ対面したことのない弟・義経が奥州に下ったとしても、奥州への交渉窓口になることは期待できないでしょうし、むしろ危険因子となる可能性の方を強く意識したことと思われます。
 治承4(1180)年。頼朝の挙兵を聞いた義経は、
「兄と共に平家を打倒する」
と言って平泉から出ようとしますが、秀衡はこれに反対します。気に入った義経が手元から離れるのを嫌がったのかもしれませんし、あるいは奥州が戦争に巻き込まれるおそれを憂慮したのかもしれません。秀衡は必死に引き留めようとしますが、義経の決意は固く、最終的に秀衡は家臣の佐藤継信(さとうつぐのぶ:?~1185)・忠信(ただのぶ:?~1186)兄弟を与え、義経を送り出しました。
 義経は家来を連れて南下し、富士川の戦い終了直後の10月21日、遂に頼朝と初対面を迎えます。頼朝の黄瀬川の陣(静岡県清水町)を義経が訪問したのです。
 この兄弟の感動の対面について、吾妻鏡は「兄弟は涙を流して語り合った」と伝えています。しかし実際には、義経は兄との邂逅を無邪気に喜んでいた一方、頼朝は冷徹にこの弟が味方となるか敵となるかを見定めていたものと思われます。ちなみに兄弟が対面した場所には現在「対面石八幡神社」が建てられ、頼朝と義経が座ったとされる石があります。
 事実、感動の対面から9ヶ月後の養和元(1181)年7月20日、鶴岡若宮宝殿上棟式で、頼朝は義経に馬を引くよう命じました。つまり弟として接遇するのではなく、他の御家人と同等に扱ったのです。
 さて、頼朝は秀衡の勢力に後ろを突かれることを恐れ、自ら兵を率いて上洛することをしませんでした。その代わりに送り込んだのが源範頼(みなもとののりより:1150~1193)と義経、つまり弟2人です。
 源範頼は、義朝が遠江国池田宿(静岡県磐田市)の遊女に産ませたとされている子で、いつ頃かは不明ですが、義経と同じ頃に頼朝の軍に参陣し、源平合戦に身を投じていました。
 いよいよ範頼・義経兄弟による平家追討戦が始まります。

静岡県清水町の対面石八幡神社の中にある対面石。左側に頼朝が、右側に義経が座り、初めての対面を交わしたということらしい。2022年1月9日撮影。

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