日本人の物語00461【平安末期】山木兼隆襲撃
平家打倒を決心した頼朝は、遂に決起に踏み切りました。頼朝の味方となったのは、側近の安達盛長のほか、北条一族です。北条時政に加え、その長男・宗時(むねとき:?~1180)と次男・義時(よしとき:1163~1224)が加わりました。元々は平家方だった北条一族ですが、平家に追随するだけでは出世栄達の道が開けないことに危機感を持っていたのでしょう。
決起の標的は、平家の息がかかった伊豆目代・山木兼隆です。北条や伊東のような在地豪族ではなく、都から派遣されてきた山木は、最初の標的としてうってつけでした。
挙兵を前に、頼朝は決起に参加する者たちを一人ずつ呼び、それぞれに対して
「お前が一番の頼りだ」
と述べました。その結果、全員が「自分が特に評価されている」と喜び、奮起したといいます。頼朝なりの人心掌握術ですね。簡単に露見しそうですが、上手くいったようです。
治承4(1180)年8月16日。決起前日になりましたが、約束していた佐々木四兄弟が来ません。ちなみに佐々木四兄弟とは、定綱(さだつな:1142~1205)、経高(つねたか:?~1221)、盛綱(もりつな:1151~?)、高綱(たかつな:1160~1214)の4人です。
頼朝は「さては裏切ったか」と心配しますが、定綱らは翌17日になってようやく現れました。佐々木四兄弟は「洪水のため遅れてしまった」と相当に疲労困憊した様子で、頼朝は涙を流してこれをねぎらったといいます。
8月17日未明。頼朝配下の30騎は行動を開始しました。のちに多数の御家人を抱えることとなる鎌倉幕府は、最初はほんの30名による軍事行動から始まったのですね。
一同が特に警戒していた相手は、山木兼隆の後見役・堤信遠(つつみのぶとお:?~1180)でした。信遠は名の馳せた勇士で、腕自慢の佐々木四兄弟が信遠との戦いを担当します。
子の刻になると、佐々木経高が信遠の館に火矢を放ちました。信遠方の郎従が応戦して戦闘が開始され、経高は途中で矢を捨て、太刀を取って信遠の館に突入していきました。信遠も太刀を取って組み合いとなり、経高は矢を受けて倒れたものの、そこに定綱が加わり、遂に信遠を討ち取りました。
強敵を先に倒した一同は、次に山木館に火を放ちます。この日は三島神社の祭礼があったため、山木館に仕える郎従の多くが参詣に出払っており、不在でした。館に残っていた兵たちは激しく抵抗しましたが、遂に兼隆は討ち取られました。山木館は完全に焼失しました。
アンチ平家派の公卿・九条兼実は、日記『玉葉』にこの山木襲撃の知らせを驚きをもって記していますが、
「謀反人義朝の子が駿河・伊豆を占領した」
とあり、頼朝の名前すら認識していません。それほど頼朝は都で忘れられた存在だったのですね。
