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日本人の物語00491【平安末期】宇治川の戦い

 頼朝は義仲を討つべく、範頼・義経の兄弟を京に派遣することとしました。寿永3(1184)年1月20日、範頼・義経は義仲配下の志田義広と、宇治川(京都府宇治市)で対決することとなります。
 この戦いでの有名なエピソードが、梶原景季(かじわらかげすえ:1162~1200)と佐々木高綱の先陣争いです。梶原景季とは、頼朝の側近・梶原景時の子です。一方、佐々木高綱は頼朝が最初に決起したときに参加した佐々木四兄弟の一人です。
 宇治川を挟んで志田軍と範頼・義経軍が向かい合い、いよいよ戦闘が始まるというときに、梶原・佐々木の両者が競い合うように宇治川に飛び込みました。先に飛び出したのは梶原の方でした。
 すかさず佐々木高綱が後ろから、
「梶原殿! 腹帯がゆるんでいますぞ!」
と呼びかけました。梶原景季が急いで腹帯を締め直している間に、佐々木高綱が追い抜いていきます。
「しまった。図られたか」
と思った梶原景季は、
「佐々木殿! 水の底には綱が張ってありますぞ!」
と注意しました。しかし佐々木高綱はこの言葉で速度をゆるめることなく、馬上から太刀を使って綱を切り、先陣をとりました。
 木曽勢の根井行親と楯親忠は必死に防戦しますが、鎌倉勢の範頼・義経軍に宇治川を突破され、総崩れとなりました。範頼・義経軍はその勢いで雪崩を打って都へ突入していきました。木曽勢と鎌倉勢は京の六条河原で合戦を繰り広げます。
 このとき義仲は、京を脱出して北陸に赴くべく準備をしていました。頼朝が派遣した大軍に、数の上で敵わないと判断したのでしょう。義仲は最後に後白河法皇に暇乞いをするため、六条殿に向かいました。
 このとき公家たちは、「法皇が義仲に拉致される」と恐れて護衛に当たっていましたが、義仲にはあくまで最後の挨拶をしたいという意図しかなかったようです。義仲は後白河に謁見した後、妻・伊子と最後の逢瀬を済ませ、六条河原へと向かいました。
 六条河原では、まさに根井行親・楯親忠が義経軍と激戦を繰り広げていましたが、あえなく戦死しました。義仲も奮戦しますが遂に敗れ、近江瀬田(滋賀県大津市)を守っていた今井兼平と合流すべく、瀬田に向かいます。

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