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日本人の物語01072【南北朝中期】京、三たびの失陥

似たような展開が続いて、飽きてきてしまいますよね。そういえば三国志を初めて読んだときも途中で飽きてきたのを思い出します。

 正平9/文和3(1354)年12月13日。直冬を大将とする山名時氏・師義父子の軍勢は5千騎で伯耆を出発しました。
 山名勢にとっては、まずは播磨弘山にいる義詮軍を打ち払うべきなのか、はたまた山陰道を進んで仁木頼章が守る佐野城(兵庫県丹波市)の軍勢と戦うべきかが問題でした。
 どうすべきか相談していたところに、越中国の桃井直常、越前国の斯波高経からそれぞれ飛脚が届きます。
「ただ急ぎ都へ攻め上ってください。我々は北国の軍勢を率いて同時に攻め上ります」
というのです。これを見た山名時氏は、
「それなら先を急ぐためにも山陰道を上ろう」
と決意します。京になるべく早く到着するには、山陰道が良いと思ったのでしょう。
 斯波高経といえば、越前国で新田義貞を相手にずっと戦っていた幕府方の武将でしたね。第三次京都合戦で直義党に寝返り、さらに南朝方になってしまったのでした。
 7600騎を率いた直冬・山名父子は山陰道を上って丹波国へと入ります。せっかく播磨弘山まで出向いていた義詮軍は肩透かしを食うこととなりました。ある意味、陽動作戦に掛かったといってもよいでしょう。
 さて、山陰道の途上には仁木頼章が守る佐野城がありました。仁木軍が山名勢を迎え討つはずだったのが、どういうわけか一切手出しをせず、山名勢を素通りさせてしまいます。太平記は
「仁木頼章は山名勢にも嘲られ、天下の笑い者となった」
と記していますが、この素通りは尊氏の作戦だった可能性もあります。山名勢が京に入った後で、尊氏軍と仁木軍に前後から挟み撃ちされるとひとたまりもないからです。
 年が明けて正平10/文和4(1355)年1月12日、直冬・山名勢が大江山(京都府福知山市)を越えたとの知らせを受けて、尊氏は後光厳天皇を連れて近江の武佐寺(滋賀県近江八幡市)に逃亡しました。足利軍のほとんどを義詮に持たせて播磨に出向かせていたので、京の尊氏軍は小勢だったのです。とても戦えないと見たのでしょう。後光厳天皇にとって、即位から3年も立っていないのに都を落ちるのはこれが二度目です。
 1月13日。直冬・山名勢が丹波路から、桃井直常・斯波高経が北国から、それぞれ入京しました。京に南朝軍が集結し、京はこれで三たび南朝方の手に渡ったこととなります。直冬は東寺に陣を布き、尊氏との対決に備えます。

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