日本人の物語01692【戦国/東国/長享の乱】諏訪 惣領暗殺
この連載では、地域に伝わる伝説は取り上げますが現代人による創作は取り上げないことにしています。その結果、なかなか人間の個性に着目した話ができないですね。もっと時代が進めば戦国武将たちの個性豊かなエピソードがいろいろ出てくるのですが。
高遠継宗に対する保科貞親の反乱に諏訪惣領・政満が加担してしまい、文明14(1482)年7月29日には笠原(長野県伊那市)の戦いで保科貞親が高遠継宗軍を破ってしまいました。上社内のすさまじい内紛を知った下社派の府中小笠原長朝は、この勢いに乗じて上社と松尾小笠原家を倒せるかもしれないと考え、保科貞親を支援するべく援軍を派遣します。
対立構造が変わり、「上社大祝継満+松尾小笠原家+高遠継宗VS下社+上社惣領政満+府中小笠原家+保科貞親」という形になりました。犬猿の仲であるはずの上社惣領政満軍と府中小笠原軍とが同じ城中に陣を構えることとなったのです。下社大祝の金刺興春も、武力衝突を繰り返してきた宿敵である上社の惣領が自軍の陣営にいることにひどく戸惑ったことでしょう。
一方、上社大祝・継満は下社と惣領を同時に敵に回してしまったわけで、この二正面作戦に耐え切れず、どちらかを味方に引き込んでどちらかと戦おうと考えました。そこで継満が選んだのは、下社大祝・金刺興春を寝返らせて惣領・政満を殺害するという作戦でした。
文明15(1483)年1月8日、事件は起こりました。継満が和解と称して政満とその子・宮若丸(みやわかまる:?~1483)、政満の弟の原田小太郎(はらだこたろう:?~1483)ら十数人を神殿に招き、宴を開いたのですが、その宴の最中になんと3人を殺害してしまったのです。金刺興春も加担した上での犯行でした。
これは少々意外な展開です。というのも、下社は激しいテロ活動によって何度も上社に多数の死傷者を発生させてきた過去があります。一方、惣領家と大祝家は長年対立してきたとはいえ、その期間のほとんどは冷戦状態であり、死傷者を発生させるほどの武力衝突は起こっていません。上社大祝にとってはどう考えても下社こそが許されざる敵であり、惣領は妥協が可能なレベルの敵に過ぎないはずですが、どうも人間は敵対した近親を滅ぼすためにもっと深刻な敵と手を結んでしまう傾向があるように思われます。
惣領家は主を失ったわけですが、家臣の矢崎政継(やざきまさつぐ)を中心にまとまり、大祝方と戦います。大祝・継満は戦いに備えるべく1月15日に干沢城(ひざわじょう:長野県茅野市)に立て籠もりましたが、2月19日に矢崎政継らの総攻撃を受けて城が陥落しました。
継満自身は城を捨てて逃亡したものの、重病にかかっていた父の頼満は城に捨て置かれたため惣領方に討たれました。寒い日に行われた戦だったため、逃亡者の中にはそのまま凍死した者も多かったといいます。
干沢城を追われた継満は、逆転を期して磯並前山(長野県茅野市)に立て籠もりました。諏訪大社の混乱はまだまだ続きます。
諏訪大社は上社本宮が諏訪市内、上社前宮が茅野市内、下社が下諏訪町内と、三つの自治体にまたがっています。なぜこんなに離れたところに作ったのか気になりますね。
