日本人の物語00338【平安中期】小式部内侍
和泉式部を取り上げたついでに、その娘の小式部内侍についても取り上げておきましょう。
小式部内侍は橘道貞と和泉式部の間に産まれた子で、母とともに中宮彰子に出仕した人物です。和歌の才能は母譲りで、多くの歌を残しています。
小式部内侍の最も有名なエピソードは、なんといっても四条中納言こと藤原定頼(ふじわらのさだより:995~1045)から嫌味を言われた際に撃退した話でしょう。
当時、小式部内侍の歌について「母の和泉式部が代作しているのではないか」との噂が立っていました。そんな折、小式部内侍が歌合に参加することとなったため、藤原定頼は
「丹後にいる母上に代作を頼むための使者は出しましたか。使者は帰って来ましたか」
と言ってからかいました。
これに対して小式部内侍は即興で歌を返しました。
「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」
この歌の意味を知るには、地理を押さえておく必要があります。京から和泉式部の住む丹後国の天の橋立(京都府宮津市)に行くには、大江山(京都府福知山市)を越えなければなりません。そして大江山を越える手前には、生野(いくの:京都府福知山市)という地があります。
つまり、「生野を越えて大江山へ行く道は遠いので、まだ天の橋立の地を踏んでみたことがありません」という意味と、「大江山に『いく』のは遠いので、まだ『ふみ(手紙)』を見てはいません」という意味とを掛けているわけです。
「行く野・生野」「文・踏み」の巧みな掛詞が使われており、まさに当意即妙とはこのことでしょう。
当時は歌を詠まれれば返歌を行うのが礼儀であり習慣であったにもかかわらず、定頼は狼狽して返歌も出来ずに黙って立ち去ってしまい、大いに恥をかいたといいます。この大江山の歌は、百人一首に収録され現在でも小式部内侍の最も有名な歌となっています。
母の代筆という噂を払拭し、名声を得た小式部内侍でしたが、万寿2(1025)年11月、夫・藤原公成(ふじわらのきんなり:999~1043)の子を出産した際に死去してしまいました。このとき、母の和泉式部はひどく悲しみ、こう詠みました。
「とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさるらむ 子はまさりけり」
(亡くなった娘は、この世に自分の子供と母親の私を残して、いったいどちらのことを深く思っているだろうか。きっと我が子を思う気持ちの方がまさっているのだろう。私にとっても娘との死別がつらくて、ひたすら思っているのだから)
娘に先立たれる悲しみと、我が子を残して世を去るその娘の悲しみとを並べ歌った名歌です。
