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日本人の物語00705【鎌倉後期】安達泰盛の人柄

 泰盛は21歳年下の妹・覚山尼(かくさんに:1252~1306)を養女として養育し、その後時宗に嫁がせていました。その間に産まれた子が貞時ですから、泰盛は執権貞時の外祖父に当たるわけです。12歳の貞時のいわば後見役として振る舞ったのでしょうが、泰盛の実権掌握は得宗家の御内人たちを警戒させたに違いありません。
 安達泰盛のエピソードを伝える史料は豊富にあります。
 前述のとおり『蒙古襲来絵詞』では、泰盛は竹崎季長の直訴を聞き届けて恩賞を約束した上、帰りの馬の手配までしており、情に厚い泰盛の人柄が窺えます。この絵巻が作られたのは泰盛が滅ぼされた翌年と推定されており、竹崎季長が泰盛をここまで細かく取り上げたのは、追悼の意味を込めたものかもしれません。
 また、徒然草185段にも泰盛の話が取り上げられています。
「安達泰盛は無双の馬乗りであった。厩舎から引かれてくる馬が障害物をひらりと飛び越えたのを見ると、『この馬は気性が荒い』と言って、他の馬に乗り換えることとした。また、脚を伸ばして障害物につまずく馬がいると、『この馬は鈍い。事故が起こるかもしれない』と言って、乗らないようにしていた。乗馬を知らない人は、ここまで用心することはないだろう」
 一流の人こそ、十分に用心するものだという教訓として提示されています。温厚篤実ながら、用心を欠かさない慎重な性格であったと考えられます。
 泰盛は乗馬という武芸に秀でたことで知られる一方、文化面でもすぐれた人物として知られています。泰盛は世尊寺流(せそんじりゅう)という藤原行成を始祖とする書道を修め、秘伝の伝授まで受けて、18歳で将軍の右筆(ゆうひつ:文書を代筆する職員)を務めています。
 さらに泰盛は、後嵯峨上皇から漢籍(中国の書籍)を下賜されたとの記録があります。高度な文学に親しむほどの教養があったということでしょう。泰盛は後嵯峨上皇崩御の翌年に高野山奥院に院を追悼する石碑を建立していますから、上皇との間で文化的交流をたびたび行っていたものと推察されます。
 そのほか、蹴鞠にも堪能であったと記録されていますから、朝廷との関係上、公家文化を学ぶ必要性を強く感じ取っていたのでしょう。
 土地分配こそが政治の本質であった中世日本において、土地を奪うのでなく平和的な手段で閉塞状態からの打開を試みた泰盛でしたが、政治状況はここから悪化の一途をたどることになります。

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