日本人の物語01168【南北朝末期】河越合戦
河越で起こった戦いといえば、戦国時代の「河越夜戦」又は「河越城の戦い」という日本三大奇襲の一つにも数えられる有名なやつがあるんですが、今日取り上げるのは全然有名じゃない方の戦いです。
上杉憲顕の留守を狙って起こされた武蔵平一揆の乱でしたが、憲顕が鎌倉に戻ったことで本格的に鎮圧軍の行動が開始され、いよいよ反乱軍と鎮圧軍の決戦が始まります。
正平23/応安元(1368)年閏6月17日。憲顕の指示を受けた上杉朝房が10歳の鎌倉公方・足利氏満を擁して河越(埼玉県川越市)に進出し、鎮圧軍と戦いました。河越合戦と呼ばれる戦いです。
この戦いで河越直重らは壊滅的な損害を受け、南朝の北畠顕能を頼って伊勢国へと敗走し、河越氏の領地は全て没収されました。武蔵平一揆もまた、大打撃を受けて雲散霧消してしまいます。
こうして鎌倉時代以降ずっと関東の名家であった河越氏は、大名としては滅亡し、歴史の表舞台から姿を消しました。河越直重が住んでいた場所は「河越館跡史跡公園」として整備されています。混同されやすいのですが、戦国時代に太田道灌が築いた「河越城」とは別の場所です。
このとき、上杉憲顕・朝房が河越氏を滅亡させるほどの大活躍を見せたことが、後に関東管領を上杉家が代々継いでいくという慣例が形成されるきっかけになったと思われます。
さて、武蔵平一揆の乱に呼応して、南朝勢力もまた挙兵しました。同年7月、新田義宗・脇屋義治が上野・越後国境周辺で兵を挙げたのです。
7月21日、上野沼田荘(群馬県沼田市)での戦いで新田義宗は敵の矢に右眼を射抜かれ、うつぶせに落馬して壮絶な最期を遂げました。この最期の地は「うつぶしの森」と呼ばれ、新田義宗を祭神とする白佐波神社が建てられました。
一方、義宗の従弟に当たる脇屋義治は、出羽に敗走していきました。
義治がなぜ出羽に逃亡したかというと、出羽国寒河江(さがえ:山形県寒河江市)に大きな南朝勢力がいたためです。鎌倉幕府初期を支えた大江広元の血を継ぐ名門、「寒河江大江氏」です。
寒河江大江氏は、大江広元の嫡男・大江親広が寒河江荘に逃れてきたことから始まります。親広は京都守護という重職を任されるほど、鎌倉幕府内で栄達を極めていましたが、承久の乱の際に父・広元と分かれて後鳥羽上皇方についてしまい、没落した末に寒河江に逃亡してきたというのです。その後、幕府に許されたものの重職に就くことはできませんでした。
さらに南北朝の動乱が始まると、寒河江大江氏は南朝方に与してしまいます。とことん運のない一族のようです。
脇屋義治を迎え入れた寒河江大江氏は、鎌倉公方軍と一戦交えることとなります。
