日本人の物語01255【室町/義満期】応永の乱 不満の原因
経緯を詳しく見ていくと、どうも明徳の乱の際に義満が有力守護を罠に嵌めて滅ぼしたのと、今回の応永の乱とは異なる気がします。大内義弘は罠に嵌まったのではなく、自ら好んで挙兵しているような。
まあ、もしかしたら義満の罠が更に洗練されていて、尻尾を出さなくなっただけかもしれませんが。
これまで述べてきたとおり、『応永記』では義弘の家臣が「将軍の不信を解くべき」と意見具申する場面があり、義弘に反逆心はなかったとの立場を取っています。ではなぜ堺に要塞を築く必要があったのでしょうか。『応永記』の続きを読んでみましょう。
絶海中津の説得に対し、義弘は
「将軍の御政道を諫めるべく、鎌倉殿(鎌倉公方の足利満兼のこと)と申し合わせており、来月2日に鎌倉殿とともに上洛するつもりである。延暦寺も興福寺も内応済みである。今更止められぬ」
と言って離席し、ここに交渉は決裂しました。
結局、義弘の計画がよく分かりません。鎌倉公方と示し合って洛中に攻め込む計画まで立てておきながら、これはあくまでも反逆ではなく、諫言のためだというのです。しかも上洛の日付まで教えてしまうとは、この反乱が失敗に終わる確率を高めてしまっています。
どうやら義弘は兵を率いて義満に諫言しようと考えながらも、上手くいかなければ将軍を討とうという、いわば和戦両用の構えだったように思われます。
不満の原因については、『応永記』に
①義満が少弐・菊池ら九州の大名に対し、密かに大内討伐を命令していた。
②義満が義弘から紀伊・和泉を没収するとの噂があった。
③九州で戦死した弟・満弘の遺児に恩賞が与えられなかった。
の3点が挙げられていますが、どれも証拠のある話ではありません。そこで歴史家の間では
④南朝方の和睦条件を義満が履行しようとしないことに義弘が立腹した。
という可能性が取り沙汰されています。義弘が南北朝合一の交渉窓口役だったので、義満が和睦の条件を履行せずにいるのは義弘の面目つぶしに当たるというわけです。しかし、これまた特段の証拠がある話ではありません。
ともあれ、応永6(1399)年11月2日をもって堺から大内が、鎌倉から足利満兼が、京に攻め込むとの計画が露見しました。
ところが、この攻撃は結局行われませんでした。鎌倉公方満兼は、出兵しようとしたところで上杉憲定の猛反対を受け、説得に時間を要していたのです。ちなみにこの時点での関東管領は上杉朝宗でしたが、あくまで憲定が就任するまでの「つなぎ」という位置付けであり、憲定はこの6年後に関東管領に就任する運命にあります。
総攻撃が行われないのを知った義満は、11月8日、東寺に本陣を置いて大内討伐の準備を進めました。3万騎を堺に派遣し、殲滅する作戦です。
