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日本人の物語01470【室町/西国/大乱前夜】宗全失脚

畠山家については、今は「弥三郎派と義就派」に分かれて争っていますが、ここからひどく分かりにくい経緯を辿ります。特に、弥三郎派の中でも特に過激な山名宗全の動きが何とも分かりにくいのです。

 一敗地にまみれた弥三郎派は、とんでもない方法で巻き返しを図ります。享徳3(1454)年8月21日、畠山持国の邸宅に放火したのです。幕府高官の邸宅に放火とは、将軍を恐れぬ所業です。
 弥三郎派が突如としてこれほどの暴挙に出た理由は、証拠はありませんが恐らく山名宗全の指示でしょう。細川勝元のような冷静沈着な人物が突然こんなエスカレーションを起こすとは思えず、性格的に激しやすい山名宗全が企みそうな話と思われます。
 居宅を燃やされた畠山持国は、建仁寺に逃れました。また、京にいては命が危ないとのことで、畠山義就は翌22日に遊佐国助に連れられ、河内へと落ち延びていきました。
 そして8月28日、なんと畠山弥三郎は家督を相続した旨を宣言して将軍義政に拝謁してしまいます。もちろん将軍名で出されていた弥三郎追討令も取り消されました。
 詳細な経緯がよく分からないのですが、放火という犯罪によって家督継承者を追い出した者が、なぜ将軍への謁見を許されたのでしょうか。恐らく山名宗全にけしかけられた管領・細川勝元が取り図ったのでしょうが、ここで宿老・畠山持国の意見も聞かず弥三郎の家督継承を許してしまう将軍義政もどうかしています。
 このように、宗全は管領勝元を通して将軍義政の判断を左右するほどの権力を有していたと思われます。ところがその宗全はあっという間に失脚することとなりました。その原因を説明するには、嘉吉の乱の残党である赤松則繁の行方から説明しなければなりません。
 赤松則繁は、嘉吉の乱の首謀者の中で唯一捕縛を免れた人物でした。彼は当麻寺(たいまでら:奈良県葛城市)で甥の赤松則尚(あかまつのりひさ)に密かに匿われていたのです。しかし赤松則尚は細川持常からの説得を受けて則繁を見捨て、文安5(1448)年8月8日に則繁を討ち取りました。
 10月、この功績に報いるために持常の計らいで、則尚は赤松旧領である播磨・備前・美作国の一部を与えられることとなりました。
 播磨を拠点とする赤松に所領を与えることは、つまり山名の所領を減らすことを意味します。細川勝元と山名宗全は蜜月関係にあるので、恐らくこの持常の行為は勝元に了解なく行われたものでしょう。持常は「細川家の安泰のため、山名の勢力を削ごう」と独自に考えて動いたものとみられます。
 しかし将軍義政が命令しているのに、山名宗全は
「将軍が親の仇(義教を討った赤松氏のこと)を取り立てるとは何事か」
などと放言して強硬に引き渡しを拒みます。これでは持常のみならず、将軍の面子も丸つぶれです。この言葉に義政は激怒し、宗全を討伐せよと命じました。
 義政にとって、赤松家は確かに親の仇に違いありません。その義政が赤松家を再興させることに躍起になり、それに反対する宗全を討伐するとは意外の感があります。義政は独裁者として恐れられた父義教を嫌っていたのかもしれません。

山名宗全がいかに「困ったちゃん」なのか分かってきたことと思います。この人がいなければ応仁の乱は起こらなかったでしょう。

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