日本人の物語00358【平安中期】頼通の影響力低下
長暦元(1037)年8月17日。後朱雀天皇と藤原嬉子の間に産まれた親仁親王が立太子しました。
これで藤原道長は(もう故人ですが)また外祖父になるわけですね。それなのに、頼通はなかなか外祖父になれません。
さて、長暦3(1039)年には、頼通の影響力がさらに低下する出来事がありました。延暦寺と園城寺の対立が深刻化し、延暦寺の僧らが、次期天台座主が園城寺側から選ばれることを恐れ、頼通邸に強訴してきたのです。
頼通は後朱雀天皇に決断を仰ぎますが、天皇は
「私には決められないから公卿らの意見を聞いてほしい」
と答えました。
これを聞いた頼通は
「帝は私に責任をなすりつけようとしている」
と不満を洩らしたといいます。
せっかく最高権力者の座にいるのですから、天皇に相談せず勝手に進めてしまえば良いと思うのですが、頼通には優柔不断の気があるようです。道長なら天皇をないがしろにして、自ら采配を振るったことでしょう。
こうした頼通の態度が、藤原氏から権力が削ぎ落とされていく一因となったと考えられます。
さらに長久元(1040)年、頼通は
「現任の国司から1、2代前から以後の荘園を禁止することにしたい」
と提案しました。荘園を減らし、財政を健全化するための提案でした。
しかし後朱雀天皇は、
「国司たちは、現任国司以後の荘園を禁止することに留めてほしいと言っているので、そのようにせよ」
と指示しました。これでは効果は半減です。
結局頼通は、後朱雀天皇の指示通りの荘園整理を行いました。「長久の荘園整理令」と呼ばれるものです。国司たちの意見を容れたせいで不十分な政策を実施する羽目になったわけで、これまた、道長と比べると頼通は安易に妥協してしまう人物であったことを示しているように思われます。
