日本人の物語01202【南北朝最末期】細川頼之の討伐と赦免
無理やり反逆者扱いされてしまった者が無事に済むとは、大変珍しい事例です。
初期の室町幕府では、失脚した有力守護に対して討伐命令が出て本格的な戦乱となり、やがてその守護が南朝方に降るという流れが常態化していました。その悪い流れがいよいよ細川頼之を襲います。
管領を罷免されて讃岐へと下向していた頼之は、四国内の敵対勢力の制圧に乗り出しました。標的は伊予国を支配する河野通堯です。河野通堯といえば、細川頼之に父を殺されて南朝に降った武将でしたね(01154回参照)。
しかし幕府は河野通堯への切り崩し工作を既に行っていました。新管領・斯波義将は天授6/康暦2(1380)年7月8日に、河野通堯を伊予守護職に補任して幕府方に寝返らせることに成功しました。7月17日には山名氏清が南朝方・橋本正督を討ち取るなど、幕府は好調を見せています。
9月になって、なんと幕府は細川頼之討伐令を出します。頼之と一心同体だった義満が将軍職に就いていながら、なぜこのような命令が出てしまうのでしょうか。恐らく義満の権力基盤はまだまだ脆弱で、斯波派の主張に逆らえなかったのでしょう。これまでとは逆に河野通堯が細川頼之を討伐する立場となりました。
しかし根っからの行政マンと思われていた頼之は意外に戦上手で、容易には屈しませんでした。
11月6日、頼之はいったん讃岐方面へ退却したと見せかけて伊予山中に軍を進めます。河野軍はこれに惑わされ、大軍を新居(愛媛県新居浜市)・宇摩(愛媛県四国中央市)方面へ進出させました。陽動作戦にかかってしまったのです。
これにより、河野軍の拠点である世田山城(愛媛県今治市)はすっかり手薄となりました。頼之はここに急襲をかけ、なんと大将である河野通堯を討ち取ったのです。
管領・斯波義将は次なる刺客として山名時義・義幸を四国に派遣しようとしますが、山名も頼之の勢いを恐れて備前に留まってしまい、なかなか四国に渡ろうとしません。頼之討伐は事実上棚上げとなってしまいました。
河野を打ち破った頼之は、伊予に深入りすることなく讃岐の領国統治に専念しながら自らの赦免運動を行いました。もちろん、南朝に降ることもありませんでした。
頼之を葬ることに失敗した斯波義将は悔しがったでしょうが、結局、翌年3月には将軍義満名で頼之の弟・頼元に対して河野氏との和解を命じる御教書を出し、頼之・頼元兄弟の赦免が決まりました。これにて細川・河野間の抗争は終結しました。
一方、戦死した河野通堯の子・通義(みちよし:1370~1394)は後任の伊予守護に任じられました。その通義は応永元(1394)年に26歳で急死し、弟の通之(みちゆき)が守護職を継承しました。通之は父と祖父を殺したはずの細川頼之と良好な関係を築き、頼之から「之」の一字をもらっています。
