日本人の物語00337【平安中期】和泉式部 晩年と死
この後和泉式部は、藤原道長の娘・彰子に仕えました。
『紫式部日記』に和泉式部の人物評があり、紫式部が仕事上の同僚としての和泉式部をどう見ていたのかが記録されています。
「和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたのざえある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり」
(和泉式部にはいろいろけしからぬ話もあるが、打ち解けて手紙をやりとりしてみると、走り書きした文章にも文才がよく表れている)
和泉式部は「浮かれ女(浮気女)」の烙印を押され、孤独に過ごしていたようですが、紫式部は少なくともいじめには加わっていなかったことが分かります。また、和泉式部の教養の深さに紫式部は一目置いていたのでしょう。
和泉式部はのち、藤原道長の配慮によって藤原保昌(ふじわらのやすまさ:958~1036)と再婚します。保昌は道長の家司で武勇をもって知られた人物ですが、和歌と教養にすぐれた和泉式部と相性が良いとは思えません。
和泉式部は保昌の任国である丹後(京都府北部)に下りましたが、保昌は左馬頭の職を持っていたため、夫の上京中は一人で寂しく丹後に滞在していたようです。
和泉式部の晩年については記録がなく、よく分かっていませんが、天台僧・性空(しょうくう:910~1007)に対して
「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」
という結縁歌(けちえんか:仏教上の縁を歌ったもの)を送り、そのお返しに性空から袈裟をもらい、それを着て死んだといわれています。
そのほか、晩年に詠んだ歌が非常に有名です。
「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」
「あらざらむ」というのは、「もう残り少ない」くらいの意味です。残された命は短いけれども、この世から去るにあたって最後の思い出にもう一度だけ逢いたいと歌っているのです。
ここでいう「逢いたい」とは誰に逢いたいというのでしょうか。恋多き女であった和泉式部のことですから何ともいえませんが、やはり『和泉式部日記』で大恋愛を繰り広げた相手、敦道親王ではないかと思いたいところです。
三十六歌仙の一人である和泉式部は、数多くの秀歌を残しましたが、やはり死を前に詠んだ最後の一首は抜きん出ており、百人一首に収録されるのもうなずけますね。
