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日本人の物語01613【室町/東国/長尾景春の乱】道灌無双

鉢形城歴史館という博物館に行ったことがあります。きっと長尾景春について展示されているだろうと期待して行ったのですが、戦国時代の真田家の展示しかなく、がっかりしました。

 河越街道を全て攻略した道灌は、文明9/享徳26(1477)年5月、いよいよ敵の大将・長尾景春との対決に向かいました。
 景春は鉢形城を出て梅沢(埼玉県本庄市)に布陣します。山内上杉顕定も、本拠である白井城(群馬県渋川市)を出て清水(埼玉県上里町)まで進軍してきて、両者は激突寸前の距離にあります。
 合戦間近というこの状況にあって、上杉方の軍議では長尾忠景と太田道灌の主張が真っ向から対立しました。忠景は
「梅沢は要害であり、直接攻めるのは危険である」
と述べて合戦を回避すべきと主張しますが、道灌は
「次郎丸(埼玉県寄居町にある地名)から攻め上って、鉢形城と梅沢の間に軍勢を入れて威圧すれば、敵は平地に出てくるはずだ。そこを叩けば安全に勝てる」
と積極策を主張したのです。
 5月8日、道灌は忠景の了解もとらず、勝手に次郎丸へと進軍してしまいます。すると道灌の予想通り、景春はそれを追って梅沢から平地へと出てきました。道灌は用土原(埼玉県寄居町)まで進んで景春を十分におびき寄せてから、いきなり反転して針谷原(埼玉県深谷市)で迎え討ちます。「用土原・針谷原の戦い」の始まりです。
 この戦いは、道灌方の大石房重(おおいしふさしげ:?~1477)や景春方の長野為業(ながのためなり:?~1477)が戦死するほどの激戦となりましたが、最終的に景春は敗北し、鉢形城へと敗走しました。
 この頃、上杉方の五十子の陣には万里集九(ばんりしゅうく:1428~?)という当代随一の歌人が招かれていたのですが、万里集九はこの合戦における道灌の活躍をこう書き残しています。
「道灌公はひとたび怒れば馬に鞭を当てて南から進み、軍勢を率いて川を渡っていった。そして針原(針谷原)で激しく戦った。矛先や矢じりには血がこびりつき、雷のような響きをあげてその威勢はすさまじかった。道灌公は勝鬨をあげたがなおも休まず、敵を追って鉢形の塁を囲んだ」
 実際に鉢形城を取り囲むところまで敵を追撃したかどうかは分かりませんが、数ある上杉方の武将の中で万里集九はひたすら道灌のみを褒め称えており、道灌が最も活躍したことは間違いないでしょう。
 上杉方はこの戦いで大いに勢いを得て、あとは景春の本拠・鉢形城を叩くだけとなりました。ところが、思わぬ勢力が景春を支援しようとやって来たことで、逆に上杉方は追い詰められることとなりました。そう、古河公方成氏の軍勢です。

「敵の敵は味方」理論ですね。今後も幾度となく繰り出される理論です。

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