日本人の物語00199【飛鳥】大津皇子の変*
天武天皇15(686)年7月20日。長く使っていなかった元号というシステムが再開されました。新たな元号は「朱鳥(しゅちょう又はあかみとり)」です。そして朱鳥元(686)年9月9日、天武天皇が崩御し、これを機に元号「朱鳥」は使われなくなりました。「朱鳥」が使われたのは2ヶ月足らずで、歴代最短の元号となります。
この後しばらく天皇が不在となるのですが、歴史学者たちは便宜上、翌687年を「持統天皇元年」と称しています。
さて、天武天皇が崩御するや否や、後継者問題がまたくすぶり始めます。草壁皇子が皇太子に立っていたはずですが、ここに来て「大津皇子が武芸に秀で、博識である」と評判が立ってきたのです。
そんな中、大津皇子に疑惑が持ち上がります。天武天皇の死後まもなくの10月2日、川島皇子から鵜野讃良皇女に対し、「大津皇子が謀反を企てている」との密告があったのです。
大津皇子は逮捕され、翌10月3日、磐余(いわれ:奈良県桜井市)の自宅で自害しました。妃の山辺皇女(やまのべのひめみこ)も後を追いました。
大津皇子の辞世は次のようなものでした。
「ももつたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」
太陽が雲に隠れることを自らの死に置き換えているのですね。
大津皇子の姉である大来皇女(おおくのひめみこ:大伯皇女とも書く)は、伊勢神宮の斎宮として仕えた人物で、歌人として知られています。弟の死を深く悲しみ、弟に関するいくつかの歌を詠んでいます。その中で特に有名なのは、
「うつそみの 人なるわれや 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を いろせとわが見む」
でしょう。
「うつそみ」とは現世のことです。弟が黄泉に旅立ったのに対して、自分はまだ現世にいて、弟の墓がある二上山(奈良県葛城市)を弟(いろせ)と思って見ようということです。これは歌人からの評価の高い歌です。死んでしまった弟を思い、「自分はなぜ現世にいるのだろう」と自分が生きていることを不思議がるというのは、なかなか出てくる表現ではありません。
現在、大津皇子邸跡(奈良県桜井市吉備)には大津皇子を祀って春日神社が建てられています。大津皇子を偲ばせる展示品などは一切ありませんが、池の傍に大津皇子の「ももつたふ……」と大来皇女の「うつそみの……」の歌碑があります。二上山もよく見えます。とはいえ、この池は大津皇子が辞世に歌った「磐余の池」そのものではなく、後世に作られたため池だそうです。
大津皇子が自害に追い込まれたこの事件は、草壁皇子の天皇即位に障害となり得る大津皇子を、鵜野讃良皇女が謀略で葬ったものと捉えられています。



