日本人の物語01463【室町/西国/大乱前夜】相良氏の内紛
相良といえば静岡県牧之原市の地名で、田沼意次が藩主を務めたことで有名ですね。
場所が飛びますが、文安5(1448)年2月下旬に起こったとされる九州の相良氏の政変について取り上げておきましょう。
相良氏はかつて遠江国相良荘(静岡県牧之原市)を本拠としていましたが、源頼朝の勘気に触れて肥後国多良木(たらぎ:熊本県多良木町)に異動させられたと伝わります。
鎌倉時代には、多良木の相良宗家よりも佐無田(さむた:熊本県人吉市)の分家の方が力を伸ばしてきました。南北朝時代には相良宗家が南朝方、佐無田家が北朝方となって対立し、ますます佐無田家が相良宗家を圧倒しました。やがて、佐無田家の方が相良宗家となり、多良木の方が家臣とみなされるようになりました。
そして文安5(1448)年2月。かつて宗家だった多良木相良頼観(たらぎさがらよりみ)・頼仙(よりのり)兄弟が、現在の宗家として繁栄する佐無田相良堯頼(さむたさがらたかより:1433~1448)を妬んで挙兵し、人吉城を乗っ取ってしまいます。堯頼は命からがら菱刈(鹿児島県伊佐市)に逃れました。
反乱を知った山田城(熊本県山江村)の永留相良長続(ながとめさがらながつぐ)は、急いで兵を集めて人吉城を奇襲し、多良木兄弟から城を取り戻しました。なお、この永留相良氏というのも相良の分家の一つです。
長続が当主・堯頼の居場所を捜索したところ、菱刈に潜伏していることを知り、使者を派遣して「城に復帰いただきたい」と願い出ましたが、堯頼は反乱を防げなかったことを恥じ
「自分はこのまま隠居する。家督は長続に譲る」
と言って聞きません。16歳での隠居は早すぎるため、長続は再三に渡って説得しましたが、堯頼は帰ってきません。
そして3月になり、堯頼は菱刈で
「子牛を放牧中に角で股を突かれて死ぬ」
という謎の死を遂げました。堯頼には子もいなかったため、長続はやむなく11代当主となりました。
どうもおかしな話です。結果だけみると、
「佐無田相良家と多良木相良家が滅び、永留相良家が相良宗家となった」
というわけで、長続だけが得をしているのです。堯頼が自らの不明を恥じて家督復帰を固辞するのもおかしいですし、牛の角に突かれて死ぬというのは不自然過ぎます。実際には、
「長続が家督を奪うべく挙兵して多良木兄弟を葬り、返す刀で主君たる堯頼をも追放し、そのまま殺害したのではないか」
という気がしてなりませんが、今となっては真相を知る手段はなさそうです。
こういう事件の真相を考察するのも楽しそうですが、「考察」というより「憶測」、むしろ「創作」に近い状態になってしまいそうです。
